2008年大河ドラマ『篤姫』
「時代」ではなく
一人の女性の「生」を描いた快作
一人の女性の「生」を描いた快作
とても面白く、見応えのあるドラマだった。
正直に言えば、放映開始前はあまり期待していなかった。まず、少し前の「大奥ブーム」に乗った、安易な商業精神が気に食わなかった。なにより主人公の篤姫という存在が気がかりだった。篤姫は、歴史上特にこれといった功績のない第13代将軍徳川家定の、その正室にすぎない。幕末という日本史の一大転換期を描くには、主人公の人間関係、ドラマの主要な舞台があまりに限定されているため、やがては西郷隆盛や大久保利通、あるいは坂本龍馬といった人物のシーン、つまり主人公不在のシーンが増えて、空疎なドラマになってしまうのではないかと思っていたのだ。
確かに他の大河ドラマに比べると、主人公不在のシーンは多かった。また、大きな政治的事件もサラッと描かれる程度であり、江戸から明治へ変わる瞬間など、ほとんどナレーションだけで過ぎていった。
だが、『篤姫』は面白かったのだ。
その理由はとても単純で、「時代」を描くことを最小限に留め、篤姫という一人の個人の「人生」がひたすら丹念に描かれていたからだ。
大河ドラマは一年を通して一人(あるいは複数)の人物の生涯を描くのが基本スタイルだ。だが、実際に“描く”ことのできた作品はわずかで、主人公を“追う”だけの作品が大半だったように思う。脚本やキャスティングなどの問題もあるのかもしれないが、最大の原因は「大河ドラマ」であることから生じる、視聴者と制作者双方の期待の大きさではないだろうか。
大河ドラマは一つのイベントのような感がある。誰を主人公にするのか、キャスティングはどうなるのかといった枠組みに視聴者も制作サイドも盛り上がりがちだ。一人の人物の生涯を描くのが基本とは言え、大河ドラマはこのようなイベント性を帯びた視聴者の関心と期待から免れ得ない。通常の時代劇と違って、なにせ日本最大規模のドラマなのだから無理もない。
問題は盛り上がった結果、一人の人物の一生を描くという力点が、例えば合戦シーンをいかに細かく再現するかといった単なる映像美、あるいは主人公に感情移入させるために「憂国」「愛」などといった薄っぺらな動機づけなど、安易なエンターテイメント性に走ってしまいがちなところだ。
これは、主人公の日本史(特に政治史)における存在感の重さと比例する。源義経や坂本龍馬といったヒーローやヒロインは、すでに誰もがその生涯を知っているため、ドラマ化する際には前述のような要らざる付加価値が多くなる傾向がある。その点篤姫は、時代の中枢からやや離れたところにいる、いわば傍流の人物であったことで、そのような問題から無縁だったといえるのかもしれない。そういえば、人の一生を描いたという点では傑作だった1987年の『独眼竜政宗』の主人公、伊達政宗も日本史においては傍流の存在だ。次回、09年大河ドラマ『天地人』の主人公、直江兼続もまた極めて傍流の存在だ。
今月14日に放映された最終回、篤姫が死を迎えたとき、僕は彼女の枕頭でその死を看取った気がした。歴史上の人物としてではなく、一人の人間としての篤姫の一生が、計50回の放送のなかにあったのだと思う。満足感でもなく、達成感でもない、一人の人間の一生を確かに見たのだという、静かな気持ちだった。
明日26(金)から3夜連続で総集編が放送される。また、完全版DVDも前半にあたる第1集がすでに発売されており、後半の第2集も2月には発売予定。