蜜を吸い、冬を越し、子を残す
ただそれを繰り返すだけ

 「養蜂家」を題材にした小説など、この本以外に果たしてあるのだろうか。

 養蜂家、通称「蜂屋」はその名の通り、蜂を巣箱で飼育し、蜂たちが花から集めてくる蜜を売って暮らす職業のことだ。日本の蜂蜜の歴史は飛鳥時代にまでさかのぼるという。その上質な甘さと栄養価の高さから、古くから貴族などの間で親しまれてきた。だが、当時は天然の巣を見つけては叩き壊して蜜を得る以外に採取する方法はなく、能動的に蜂を飼育する養蜂という職業の出現は、江戸時代末期にまでくだる。

 養蜂家は旅の職業である。桜や梅などを見てもわかるように、花の開花期は南から北へと順にずれながらピークを迎える。そのため養蜂家は春から晩秋にかけて、九州の菜種、日本アルプスのツツジ、北海道のシナノキと、満開の花を追って蜂たちとともに旅をするのである。

 ただし、毎年同じ場所に花が咲くとは限らない。天候不良や害虫の発生などでつぼみをつけることなく枯れてしまうこともある。蜂蜜の採取量は花の開花量に左右されるため、養蜂家は旅をしながらその年ごとに花の咲く場所を探さなければならない。また、移動にも細心の注意を要する。蜂は特に熱に弱く、夏場の移動などは絶えず風を送り込んだり、定期的に水をかけたりしなければすぐに全滅してしまうのだ。

 蜂蜜を採って暮らすというと一見のどかな仕事のように思えるが、実際には1年の半分は旅の空の下で過ごさねばならない浮草稼業であり、自然を相手にしているという点では一種賭けに近い、理不尽で過酷な仕事である。だが裏を返せば、養蜂家は実に小説的なヒントに満ちた職業であるとも言える。吉村昭のセンスと着眼点はすごい。

 この『蜜蜂乱舞』を執筆する際に吉村昭が取材した養蜂家の話というのが、沢木耕太郎のエッセイに出てくる。沢木耕太郎が仕事の取材で訪れた養蜂家が、たまたま吉村昭が訪ねた家と同じだったらしい。その養蜂家は「『蜜蜂乱舞』に出てくる記述は、本物の蜂屋が書いたとしか思えない」と感想を洩らしたという。吉村作品に共通する、綿密で繊細な取材がここでも発揮され、養蜂家というマイナーな仕事をつぶさに知ることのできる、一種のドキュメンタリーのような仕上がりになっている。

 だがこの本はあくまでも小説だ。ストーリーがある。主人公は、鹿児島県に住む50代のベテラン養蜂家。森林開発の影響などで全国的に花の量が減少し、養蜂が徐々に斜陽化するなかで、細々と仕事を続けている。その彼の元へ、数年来音信不通だった息子が、嫁を連れて帰ってくる。憤りと喜びとが交錯するなかで、彼は妻と息子夫婦を連れ、蜂とともにまた今年も旅に出る。

 物語は実に静かに進む。途中、嫁の兄が刑務所に収監され、間もなく刑期を終了する身であることがわかる。その兄が後々一家の前に姿を現して騒動が起きるのかな、などと予想していたのだが・・・そんな展開はない。一家に同行する弟子や、旅先で出会う養蜂家を廃業した男など、いろいろな人物が登場するのだが・・・やっぱり何も起きない。

 物語の淡々とした足取りは終始変わることはなく、そのままラストを迎える。旅は終わり、家族は家路に着く。旅の暮らしは過酷だが、当人たちにとってはそれが当たり前の生活なのであり、人生なのだ。

 蜂たちは花を探して蜜を貯め、冬を越し、子を生み、死んでゆく。短い人生は決まりきった1つのパターンしかない。それを何世代にもわたって綿々と繰り返していくである。だが、その変わらない営みのなかにこそ、命の力強さがある。蜂という存在が、日常というものの重さと美しさを照らし出す。

 自然を題材にした小説は、吉村作品のなかでも重要な柱の一つだ。なかでも『海馬(とど)』や『鯨の絵巻』は短編集ながらも、『蜜蜂乱舞』に負けず劣らず非常におもしろい。『海馬』のなかには、以前紹介した『羆嵐』の続編ともいうべき物語が出てきます。

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