-
『眠りの森の、ケモノ』
「share」という英単語があります。これは「分ける」という日本語訳が代表的ですが、僕は大学受験のとき、ある先生から、“shareは「分ける」ではなく「共有する」ということなのだ”と習いました。ケーキをshareするといったら、1つのケーキを数人で分ける、のではなく、1つのケーキを数人で共有する、と考えろと。
同じケーキをshareすることで、その味を共感し合い、食べるための時間を共に持つ。共有することは他人とつながることなのだ、というイメージが僕の中に芽生えたのは、このshareの意味を習ったときのことでした。
他人とつながろうとする時、音楽や映画や芝居や、何らかの媒介を共有することで、僕らはそれを果たそうとします。言語も所詮媒介です。意味を共有することでコミュニケートをするための道具です。
しかし音楽の趣向や言葉の使い方は人それぞれ微妙に違います。他人と本当にshareできるものは、ケーキのように容易く手に入れられるものではありません。
そしてまた、その人とつながり合いたいという気持ちが強ければ強いほど、逆に共有できないものの存在が見えてきてしまいます。
街を歩いているときも、駅で電車を待っているときも、大学で多くの人とすれ違うときも、そしてBRIDGEの稽古場でも、僕はいつも、この共有できないものの存在に恐怖してきました。
僕は「村」の話を作ろうと思いました。人と人とが何かを共有し合い、そしてやがて共有できないものに気づいていく、そんな集団の話を作ろうと思いました。
これが『眠りの森の、ケモノ』が生まれる、いくつかあるきっかけの内の1つです。
theatre project BRIDGEを旗揚げして丸3年が経ちました。
3年前、僕は19歳でした。大学に入ったものの自分の居場所が見つけられず、ケモノ役の小菅慎哉に誘われて、劇団を作りました。なぜ劇団だったのかと言えば、高校の時にやってみて楽しかった、というだけの根拠でしかありませんでした。明確な「劇団」ではありませんでした。当時の僕らは「芝居を作ること」ではなく、「一生懸命何かに打ち込みたい」という意志でつながった集団でした。
それから、3年が経ちました。
小菅慎哉は1度劇団をやめ、そしてまた帰ってきました。老婆役の真乃みのりはプロの劇団員になりました。法泉役の渡邉香里とリツ役の根岸花奈子は大学を卒業し就職をしました。僕は特に明確な動機もなく、台本を書き芝居を演出するようになりました。お客さんからメンバーになった人がいました。メンバーからお客さんになった人がいました。お客さんが増えました。たくさんの人に出会いました。何人かの近しい人が亡くなりました。僕らはお互いを励まし合い、喜ばし合い、傷つけあってきました。たくさんのものを手にし、同じくらいたくさんのものを失ってきました。
僕らはいつの間にか「劇団」と名乗るようになっていました。
今この文章を本番3日前の稽古場で書いています。
役者はジャージに着替え、弓役の鳥居沙菜の号令の下、ストレッチを始めました。3年間変わらない光景です。
そしてやがて、ストレッチが終わり、発声が終わると、役者が稽古場の両側にスタンバイをして、僕が「ハイッ!」と手を叩きます。
その瞬間から、僕らは何度でも、全てを始めます。お客さんとshareできる何かを、そして僕ら自身がお互いにshareできる何かを、探し始めます。喜びも悲しみも全て包み込んで、僕が手を叩いたら、ただひたすら前向きな運動を続けていくのです。
その運動が続いた、延長線上で、またもう1度僕らは皆さんと逢いたいと思います。
同じケーキをshareすることで、その味を共感し合い、食べるための時間を共に持つ。共有することは他人とつながることなのだ、というイメージが僕の中に芽生えたのは、このshareの意味を習ったときのことでした。
他人とつながろうとする時、音楽や映画や芝居や、何らかの媒介を共有することで、僕らはそれを果たそうとします。言語も所詮媒介です。意味を共有することでコミュニケートをするための道具です。
しかし音楽の趣向や言葉の使い方は人それぞれ微妙に違います。他人と本当にshareできるものは、ケーキのように容易く手に入れられるものではありません。
そしてまた、その人とつながり合いたいという気持ちが強ければ強いほど、逆に共有できないものの存在が見えてきてしまいます。
街を歩いているときも、駅で電車を待っているときも、大学で多くの人とすれ違うときも、そしてBRIDGEの稽古場でも、僕はいつも、この共有できないものの存在に恐怖してきました。
僕は「村」の話を作ろうと思いました。人と人とが何かを共有し合い、そしてやがて共有できないものに気づいていく、そんな集団の話を作ろうと思いました。
これが『眠りの森の、ケモノ』が生まれる、いくつかあるきっかけの内の1つです。
theatre project BRIDGEを旗揚げして丸3年が経ちました。
3年前、僕は19歳でした。大学に入ったものの自分の居場所が見つけられず、ケモノ役の小菅慎哉に誘われて、劇団を作りました。なぜ劇団だったのかと言えば、高校の時にやってみて楽しかった、というだけの根拠でしかありませんでした。明確な「劇団」ではありませんでした。当時の僕らは「芝居を作ること」ではなく、「一生懸命何かに打ち込みたい」という意志でつながった集団でした。
それから、3年が経ちました。
小菅慎哉は1度劇団をやめ、そしてまた帰ってきました。老婆役の真乃みのりはプロの劇団員になりました。法泉役の渡邉香里とリツ役の根岸花奈子は大学を卒業し就職をしました。僕は特に明確な動機もなく、台本を書き芝居を演出するようになりました。お客さんからメンバーになった人がいました。メンバーからお客さんになった人がいました。お客さんが増えました。たくさんの人に出会いました。何人かの近しい人が亡くなりました。僕らはお互いを励まし合い、喜ばし合い、傷つけあってきました。たくさんのものを手にし、同じくらいたくさんのものを失ってきました。
僕らはいつの間にか「劇団」と名乗るようになっていました。
今この文章を本番3日前の稽古場で書いています。
役者はジャージに着替え、弓役の鳥居沙菜の号令の下、ストレッチを始めました。3年間変わらない光景です。
そしてやがて、ストレッチが終わり、発声が終わると、役者が稽古場の両側にスタンバイをして、僕が「ハイッ!」と手を叩きます。
その瞬間から、僕らは何度でも、全てを始めます。お客さんとshareできる何かを、そして僕ら自身がお互いにshareできる何かを、探し始めます。喜びも悲しみも全て包み込んで、僕が手を叩いたら、ただひたすら前向きな運動を続けていくのです。
その運動が続いた、延長線上で、またもう1度僕らは皆さんと逢いたいと思います。
| 2003,12,19,Fri 2:35 | theatre project BRIDGE | comments (x) | trackback (x) |