『破獄』 吉村昭 (新潮文庫)

犯罪史上未曾有の脱獄王とそれを追う人々
教科書では知りえなかった昭和史が見えてくる
教科書では知りえなかった昭和史が見えてくる
太平洋戦争最中の昭和18年4月、1人の囚人が巣鴨の東京拘置所を離れ、5人もの看守が付き添う異例の厳戒警備のなか、北海道の網走刑務所へと移送された。
囚人の名は佐久間清太郎。昭和8年に青森県で起きた準強盗致死事件の犯人として逮捕された無期刑囚であり、そしてこの10年の間に青森刑務所と秋田刑務所、2回の脱獄歴を持つ男である。
これ以上の脱獄を許せば、他の囚人の増長や社会不安を招きかねないと考えた司法省行刑局は、30年近く無事故という国内屈指の警備体制を誇ってきた網走刑務所へ佐久間を移送することを決めたのである。
ぶ厚い楢の壁と鉄の扉に覆われた独居房、24時間体制の専任の看守、さらに重さ約15キロの特製の手錠と足錠。網走刑務所は威信をかけて、厳重に厳重を重ねた監視体制で佐久間を迎える。
だが、佐久間は看守たちの裏の裏をかく奇想天外な方法を駆使して、ついにはその網走刑務所をも破獄する。その後再び逮捕され札幌刑務所に収監されるも、さらに脱獄。つまり、脱獄歴は計4回、累積逃亡期間はなんと3年という、日本犯罪史上他に類を見ない服役囚、それがこの『破獄』の主人公、佐久間清太郎なのである。
実はこの本、ほぼノンフィクションである。佐久間を含め登場人物の名前こそ仮名であるが、事件の詳細な記述などは事実。獄中での佐久間の様子や刑務所側の苦労などが、吉村昭独特の、感情描写を省いたクールな筆致で細かく書かれている。
特に網走刑務所に収監されて以降は、過去の脱獄の経緯や手法、さらには取り調べでの会話など、刑務所側の佐久間に対する「研究」がなされ、そのため看守と佐久間との会話は、まるで心理戦のような緊張感がある。
時代は太平洋戦争末期。20代、30代の壮健な男性は戦地へ狩り出されていたため、刑務所側も人材が払拭しており、そのような人材難を解決するため、優良な囚人を選別し彼らに看守の補佐をさせる「特警隊員制度」という苦肉の策を採用していたことなど、時代的な事情も記述されていておもしろい。
一般国民は食料が危機的に欠乏していた時代にあって、刑務所に服役する囚人には国民よりも豊かな食事が与えられていた。これは、食料が減ることで囚人の暴動や逃走、それによる社会混乱を防ぐためであり、そのために刑務所の所員たちは食糧確保のために東奔西走する。戦争が激化するなかで、いわば日陰の存在である行刑に携わる人間たちが、そのような社会的使命を帯びて職務を全うしていた事実などは、戦時社会史の新たな一面を見るかのようである。
当の佐久間だが、4度目の脱獄後、結局は逮捕され、府中刑務所に収監される。そこで刑期を終えることになるのだが、なぜ彼がこのときに限って脱獄を犯さなかったのか。府中刑務所は一体彼にどのような態度で臨み、どのような警備体制を布いたのか。そこには、超人的な能力を脱獄という反社会行為でしか発揮できなかった哀れな人間と、それを囲む人間たちとの静かでゆるやかな交流があった。
この『破獄』は1985年にNHKがドラマ化している。僕は2,3年前に、深夜にこのドラマの再放送を偶然見かけて、それがこの原作を読むきっかけとなった。
ドラマで佐久間清太郎を演じていたのは緒形拳だった。全身の毛穴から生命力が湯気となって絶えず溢れているような佐久間という人間を、緒形拳は見事という言葉などでは足りない、すさまじい芝居で演じていた。