最高の、そしておそらく最後の
「スーパースター」

 マイケル・ジャクソンが亡くなってしまった。本当にショックだ。今年から世界ツアーを始めるというアナウンスが本人から発せられたばかりだっただけに、余計に悲しい(最初のロンドン公演が急遽延期になるというお騒がせも相変わらずだった)。兄思いの妹ジャネットは今何を思っているのだろうと考えると胸が痛い。

 多分、僕が人生で最初に出会った洋楽アーティストは彼だ。多分と書いたのは、本当に幼い頃なので記憶が曖昧なのだ。小学校に上がったくらいだろうか、とにかくまだ10歳にもなってなかった頃のことだ。

 僕は<BAD>が好きだった。しかし歌詞の意味が理解できていたはずはない。「“BAD”ってナアニ?」と親に聞いていたくらいだ。じゃあ何が好きだったかと言えば、ダンスである。僕はレコードではなくPVが好きだった。廃ビルみたいな地下鉄の駅構内みたいな、とにかく薄汚れた場所でマイケルとダンサーたちが踊りまくるアレである。やたらと細かくて素早い動き、独創的な振付。とにかくあのダンスに夢中になった。僕にとってマイケルは聴くものではなく観るものだったのだ。

 なんだか僕が異様にマセていたように見えるが、現在20代後半から30代前半くらいの人にとっては決して珍しいことじゃないはずだ。当時の小学生は小学生なりに、マイケルに洗礼を受けたのである。

 YouTubeでPVを見て改めて思う。マイケルのダンスはやっぱりすげえ。何年か前に、あるセレモニーのステージでマイケルとN’SYNCが共演したのを観たことがあるけれど、当時ボーイズ・グループのなかでは飛び抜けてダンスが上手かったN‘SYNCも、マイケルの存在感には叶わなかった。

 彼のダンスは他人にはコピーできない。ただ、それは単純な肉体の修練度の差だけではないと思う。彼のダンスはいわゆる「ダンス」というよりも、ビートと肉体が密接に絡みついた、ある意味洗練されていない原初的な身体表現なのではないか。彼のダンスは彼の感性の塊であり、つまり他人の声や顔を真似ることができないのと同じレベルで、彼のダンスは彼以外には生み出せないのである。

 個人的な思い出をもう一つ。僕は小学2年生の時にアメリカに引っ越して、現地の学校に転入した。アメリカ社会というのは、とにかく自分から発言し、自分の意思を明確に相手に伝えることを要求される。小学生であってもそれは同じで、黙っていても近くの席同士でなんとなく友達になれる日本とはクラス事情が決定的に異なるのである。だから“shy”である人間はアメリカでは疎まれる。日本で「あいつはシャイだ」というと、ちょっとした愛嬌と親しみのこもった表現になるが、アメリカでは相手をバカにした表現なのだ。

 僕は明らかに“shy”な生徒だった。日本語でさえ上手く話すことが苦手なのに、言葉が通じない人間たちに囲まれればどうしたって“shy”になってしまう。英語が徐々に話せるようになるまで、僕は“shy”であることにじっと耐えなければならなかった。う~ん、よく登校拒否にならなかったものだ。

 で、ちょうどその頃のことなのだが、ある時テレビでマイケルのインタビューを観た。マイケルの喋っている姿を見たことがある人はわかると思うんだけど、彼はいつも恥ずかしそうにはにかみながら、ポツポツと小さな声で喋る。そんな彼に対し、インタビュアーが「君はshyだね」と言ったのである。それはバカにした言い方ではなく、とても好意的な一言だった。ステージ上の姿とのギャップに親しみを覚えたのかもしれない。

 ある人間が同性愛であることをカミングアウトして、それが他の同性愛者に勇気を与えるように、と言ったら大げさなのはわかっている。だが、僕はあのマイケル(とそのコメント)に、ちょっとだけ救われたような気持ちになったのだ。「そうか、マイケルもshyなのか。マイケル・ジャクソンがshyなら、僕もshyでいいんじゃないか」と。同じ「shy村」出身だと知って以来、僕はマイケルに対してなんとなく親近感を感じてきたのだった。

 最後に作品について。僕がマイケルの作品で好きなのは『オフ・ザ・ウォール』(‘79)からこの『BAD』(’87)までの3作だ。すなわちクインシー・ジョーンズが関わった作品である。マイケルとクインシーは二人三脚で、ポップなディスコチューンでありながらもブラックな棘をさりげなくちりばめた、素人にも玄人にも波及性のある楽曲を量産し、スーパースター「マイケル・ジャクソン」の黄金期を作り上げた。敢えて3作の特徴を分ければ『オフ・ザ・ウォール』はスイート、『スリラー』はポップ、そして『BAD』はワイルド、という感じだろうか。個人的な思い入れから今回は『BAD』を挙げているけれど、この3枚全てが必聴盤である。


<BAD>。今見ると細かく突っ込みたいところはあるけれど、このダンスのオリジナリティは不変

<SMOOTH CRIMINAL>。最高のダンスを味わいつくせるPV

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「さよなら20世紀」と告げた
原点回帰ロックンロール

 現代の洋楽ロック・シーンにおいて最重要バンドの一つに数えられるストロークス。この『IS THIS IT』は彼らのデビュー・アルバム。21世紀最初の年である2001年にリリースされ、まさにロックの“旧世紀”と“新世紀”の分水嶺となった象徴的な作品である。

 と言っても、彼らは別に新しいロックを発明したわけではない。むしろその逆で、楽器編成は2本のギターとベースとドラムだけ。その使われ方も実にシンプル且つオーソドックス。60年代のようなプリミティブなロックンロールの勢いとピュアネスがある。ストロークスは「王道」というイメージだ。ロックの初期衝動に忠実なサウンドが、前世紀の間に溜まった垢と虚飾を洗い流し、再びロックは裸一貫となって新世紀を歩み始めたのである。

 なんだか音楽ジャーナリズム的な物言いばかりでカユいのだけど、例えば80年代のビジュアル先行型のエンターテイメント的ロックが衰微し、それとは真逆の、暴力的で憂鬱な音が特徴のグランジが90年代初頭に台頭したように、ロックの流行り廃りは常に反動のようなもので起きる気がする。

 90年代は、ロックなのにラップを歌ってしまうミクスチャーをはじめ、斬新で奇抜な音楽的アイディアの百花繚乱的な10年間だったが、今振り返ればそれはグランジを最後にロックの手法というものが粗方出尽くしてしまった後に行われた、不毛な実験の繰り返しであったように見える。何より90年代はヒップホップやR&Bなどのブラック・ミュージックが、ロックに代わってポップ・カルチャーの主役であった。

 だからこそ、ストロークスの登場は必然だったのだ。ロックが再びロックとしての存在感を取り戻すには、原点回帰しかなかったのである。

 だがその一方で、もはや21世紀のロックには、前世紀に培われた手法の順列組み合わせしか期待できないのだろうか、とも思う。

 音楽的試行錯誤の果てにオーセンティックなストロークスが登場し、その後今日まで続くギター・ロックのムーヴメントを作ったように、2010年代になれば今度はテクノとロックの近未来的クロスオーヴァーが流行ったり、第2次パンクブームなんてのが来たりするのかもしれない。

 だがそれはロックがその歴史のなかですでに経験したことの繰り返しだ。その時その時で、常に時代とマッチした新しい表現を獲得し、同時に古くなったスタイルは脱ぎ捨てて、新陳代謝を繰り返しながらコンテンポラリーを保つことこそがロックがロックたる所以だ。21世紀にいつかロックが「クラシック音楽」と呼ばれる日が来るのかなと、なんとなく地味に心配になる。ま、そうなったとしても聴き続けるけど。


 ストロークスやホワイト・ストライプス、リバティーンズなどの登場で印象的且つとても嬉しかったのが、エレキギターが再び「カッコイイ楽器」になったことである。

 僕が熱心にギターを練習していた高校生の頃(90年代後半)、MTVを見ていると、どのビデオでもエレキギターは音が異常にぶ厚く加工されていて、弦楽器というよりもシンセサイザーの一種のようであり、おまけにやたらととんがったフォルムをしていたり、ゴテゴテしたペイントが塗られていたりして、まるで趣味の悪い装飾品か何かに見えた。今思えばそれはごく一部のギタリストに過ぎなかったのだろうけど、当時の僕は次第にエレキギターを練習するのが嫌になり、3年生の文化祭の時以外はずっとアコースティックギターを触っていた。

 だが、2000年代に入り、上に挙げたようなバンドたちが次々とエレキギター本来の色気を取り戻したのである。彼らのギターの音はワイルドで無造作で、プレイスタイルもほとんど突っ立ったままなのだが、その姿がロックとしての説得力に溢れていたのである。


<THE MODERN AGE>PV

<LAST NITE>を演奏するストロークス

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読んでるだけでカユクなる!
「蚊」でいっぱいの珍書

 きっかけは、ある一夜に起きた恐怖の体験だった。三重県の神島という小さな島にキャンプに行った椎名誠。仲間たちと焚火をしながら大いに酒を飲み、さてそろそろ寝るかとテントにもぐりこんで、今度は満天の星空の下で幸福な眠りを貪ろうとしていた矢先、事件は起きたのである。

 テントの中の暗闇に、ざわざわという音が鳴っている。そしてなんだか全身が猛烈に痒い。仲間たちも皆モゾモゾし始めた。慌ててヘッドランプを付けると、灯りの中にはおびただしい数の蚊が、文字通り渦を巻いていたという。

 パニックに陥るテント内。声を出そうにもうかつに口を開けると蚊を食べてしまう。慌てて大量の蚊取り線香に火を付け、バチバチと手の平で蚊を退治していく椎名たち。テント内はつぶした蚊の残骸と吸われた大量の血が飛沫となってあちこちに飛散する。

 そして、彼らは「ザザザッ」という奇妙な音を耳にする。まるでテントに大量の砂粒が当たっているような音。それは、今彼らを襲っている蚊の、その何倍もの大群が、ヒッチコックの映画『鳥』のごとくテントにザザザッと当たっている音だった。

 そんな恐怖の体験から、椎名誠は突如として「蚊」に猛烈なる興味を抱く。世界にはどんな蚊がいるのかという博物学的探究から、果ては蚊取り線香の造形に関する国際比較まで、一夜にして「蚊學」に目覚めた椎名は“向学心”の赴くまま、蚊に関するさまざまなエッセイや体験談、データなどをまとめて一冊の本にまとめる。それがこの『蚊學ノ書』という一大珍書なのである。

 とにかくこの本には、徹頭徹尾「蚊」しかいない。椎名自身が書いた蚊に関するエッセイ(「近ごろの蚊」なんていうタイトルのものも)や短編小説にはじまり、C.W.ニコルをはじめ椎名の“蚊友”たちによる衝撃的な蚊の体験談(題して「蚊激な発言」)に、蚊を題材にした江戸時代の川柳を品評するという「蚊談会」。さらには「蚊の付く地名一覧」「蚊の付く人名一覧」「蚊のことわざ」なんてものまで。マラリア蚊の対策とその薬の副作用が詳しく綴られたハードな手記なんかも収録されている。

 もっとも強烈だったのは体験談。カナダやアラスカにはトンボ大の蚊がいるというし、アマゾンではあまりに大量の蚊が人にまとわりつくから蚊柱が人の形をしていて、遠くからだと巨人が歩いているように見えるという、「本当かよ!」というような話が載っている。

 驚きなのは北極にも蚊がいる、という事実。しかも寒いところにいる蚊は獰猛で、ジーパンぐらい突き通してしまうほど屈強な針を持っているらしい。専用の装備(!)をしなければ死んでしまう可能性もあるんだって。世界は広い。

 読んでるだけでなんだか痒くなる。しまいにはあの「プーン」という羽音が聞こえてくるような気にさえなってくる。だが、怖いもの見たさというか、不快なところがまた快感、というか、ムズムズしながらもぐいぐいと読んでしまう本。

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アンチ・ヒーローの仮面をかぶった
真のヒーローの誕生

 2007年2月にNHKで放映され、国内外で高い評価を獲得したドラマ『ハゲタカ』。その続編にあたる劇場版が現在公開中である。

 ドラマ版も劇場版も本当に素晴らしい作品。役者、脚本、音楽、とにかく何もかも全てが良い。おすすめです。

 この作品、タイトルだけ見るとハードなアクションもののようにも思えるが、全く違う。タイトルの由来は、ちょっと前に流行った「ハゲタカファンド」「ハゲタカ外資」の、あの“ハゲタカ”である。

 ハゲタカファンドとは、業績が落ち込んだ企業に目をつけ、株式を大量に取得するなどの方法で経営権を奪取し事業を再興させ、企業価値が再び上がったタイミングを見計らって保有している株、あるいは企業そのものを売却し利益を得る、いわゆるバイアウト・ファンドのこと。だが、一部の企業経営者やマスコミには、彼らの行為がまるで相手の弱みにつけこんで食い物にしているように映ったことから、死肉をついばむハゲタカにイメージを重ね合わせ、誰からともなく「ハゲタカファンド」と呼ぶようになったのである。特にそのファンドが外資である場合、日本人の保守的性格を刺激し、ネガティブなイメージをさらに煽ることになった。

 物語の主人公は、投資ファンドのファンド・マネージャー、鷲津政彦。あらゆる手法と大胆不敵な行動力で次々と企業買収を成功させる彼を、人は「ハゲタカ」と呼んで畏れる。鷲津と買収を仕掛けられた企業側との攻防が物語の軸だ。

 劇中では“TOB”や“ホワイト・ナイト”といったM&Aにまつわる専門用語が頻繁に出てくる。企業名などは当然架空のものだが、明らかに「あの会社のことだな」とわかるような設定ばかり。非常にコンテンポラリーなテーマを持つ作品だ。

 だからと言って、決してお堅い作品という訳ではない。確かにニュースがわかる程度の知識を持っていなければ理解しにくい部分はある。だが『ハゲタカ』は紛れもなくエンターテイメントだ。なぜなら、この作品が描こうとしているのは経済でも金融でもなく、人間だからである。

 鷲津政彦はなぜ「ハゲタカ」になったのか。この作品は、なにより鷲津という一人の人間を掘り下げている。鷲津だけではない。とにかくキャラクター一人ひとりをとことん濃密に描いている。

 この深い人間描写を可能にしているものは、“お金”の存在だ。ただの紙切れが、なぜ時に人を不幸にし、時に人を殺してしまうのか。お金という何の情緒もないものを媒介にすることで、愛や友情を正面切って描いた作品よりもむしろ深く、人間の生の姿が見えてくる。そして同時に、「お金では決して買えないもの」がぼんやりと浮かび上がってくるのだ。

 企業買収をテーマに据えた社会性と時代性、しかし最終的には人間の持つ普遍性を深く追求する骨太で繊細な志、しかもそれらをあくまでサスペンス・ドラマにしてくるんでしまう構成力。どれをとっても『ハゲタカ』は真のエンターテイメントと呼ぶに相応しい作品である。

 主人公鷲津は常に寡黙だ。そしてクールであり、感情を表に出すことがない。能面のままに何百億もの金を右へ左へと動かす彼の姿は、まさに「ハゲタカ」という呼び名そのものであり、金の亡者のように見える。だが本当は・・・なのである。全てがつながった瞬間に、このアンチ・ヒーローが、まったく新しいタイプのヒーローに見えてくる。

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いつか見た風景を映す鏡
そんな歌声がここにある

 昨年解散してしまったSUPER BUTTER DOGのボーカル、永積タカシのソロ・プロジェクト、それがハナレグミである。この『hana-uta』は2005年にリリースされたベスト盤。

 ファンク、ソウル、ブルース、レゲエからジャズやカントリーまで、サウンドは一曲一曲がバラバラでカラフル。だが、全体がアコースティックなトーンに統一されていて、どれもが静かで優しいバラードになっている。ブラック・ミュージックに根差している点はSUPER BUTTER DOGと変わらないが、グルーヴ重視ではなく、あくまで“歌”としての志向性がある。ボーカルがフィーチャーされているところはバンドと好対照で、いかにもソロ・ワークといった感じがする。

 あえて言えば、歌詞やメロディには取り立てて特別なものは感じられない。頭のなかでループするような中毒性のあるフレーズがあるわけでもないし、歌詞だって平凡と言えば平凡だ。それなのに聴き入ってしまうのは、彼の歌声のせいだろう。

 この人は本当に声がいいなあと思う。ハスキーでソウルフル。なのに黒人のゴージャスなソウル声のような“くどさ”はない。むしろ人間臭いと言うか、鼻に抜けるような独特の甘ったるさには、温もりとほろ苦い哀愁とが同居している。歌詞よりもメロディよりも、ハナレグミは声そのものが雄弁だ。

 なんと言えばいいのだろう、聴いていると外界がシャットアウトされて、引き出しの奥にしまっていた昔の手紙が何かの拍子で出てきたように、何年も前の思い出だとか、かつて感じたことのある気持ちだとか、心の奥底で埃をかぶっていたいろんなものが、一つひとつゆっくりと泡立ってくるようだ。

 ハナレグミ名義での最初のシングルであり、このアルバムでも1曲目に収録されている<家族の風景>。この曲を初めて聴いたとき、僕の瞼の裏には、何年も前に見たある夕景が像を結んだ。

 本当に個人的な情景なのだけれど、それはtheatre project BRIDGEがまだ湘南で活動をしていた頃によく使っていた稽古場の、2階の窓から見た景色だった。田舎なので周囲には高い建物がなく、ごく普通の家並みの上に空だけが広がっていた。季節は秋で、時間は多分午後3時とか、そのくらいだったと思う。空がオレンジ色に染まりきる手前の時間帯、傾き始めた陽がたくさんの砂金の粒を空中に撒き散らしたような、そんな空が広がっていた。

 きっと何かの拍子に僕の頭のフィルムに強く焼き付けられた景色なのだろう。季節、場所、時間帯、さらに言えば部屋の中の温度や窓ガラスの曇り具合まで、すべてがつい昨日の出来事のように鮮やかに蘇る。曲を聴きながら僕は、切ないような温かいような、なんとも言えない気持ちを味わった。

 ハナレグミの声は、そんな風に自分の内なる世界を覗かせる、鏡のような吸引力を持っている。その鏡に次は何が映るのかが知りたくて、何度も何度も聴いてしまうのだ。

 今月24日には4年半ぶりとなるニュー・アルバム『あいのわ』がリリースされる。


<家族の風景>はこんな曲

もうひとつ。ハナレグミと忌野清志郎による<サヨナラCOLOR>。SUPER BUTTER DOGの曲なので、このアルバムには収録されていないのだけど、あまりに素敵な顔合わせ、あまりに素敵な演奏だったので、ぜひ聴いてみてください

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 音楽・本・映画を中心に、個人的に思い入れのある作品だけをひたすら紹介してきたこのAnother Morningは今回で50回目になりました。

 これまでのところ、圧倒的に多いのが「music」の記事です。特に3月12日に投稿した「THE TING TINGS 『WE STARTED NOTHING』」以降の記事では、ラストになるべくYouTubeへのリンクを貼るよう心がけてきました。実際の音を聴くことで、「なるほど!」と感じてもらえたり、なかには「本文の印象と音が違う」なんていう風に思ったこともあるかもしれません。

 そこで、50回目記念に趣向を変えて、というほどでもないのですが、今回はYouTubeのリンクを貼っていなかった3月12日より過去の記事に関して、「実際の音」をまとめて載せてみたいと思います。


08,12,29 Duffy 『ROCKFERRY』(記事を読む
アルバムタイトル曲<ROCKFERRY>を歌うDuffy
 このアルバムを聴き直してみると、デビュー間もないとは思えない彼女の存在感の重さを改めて感じる。映像を見てもらうとわかるのだけれど、この垢抜けてない感じがとても好感が持てる。今年のグラミー賞において最優秀ポップ・ボーカル・アルバム賞を受賞。

09,1,19 the sugarcubes 『life’s too good』(記事を読む
本文でも触れた彼らの代表曲<birthday>
 どんなに「好きだ」と言っても足りないくらい大好きな曲<birthday>。iPodをシャッフルモードで聴いていて、この曲がかかるといつもビクンとしてしまう。ソロとなってしまった今、こんなバンド感溢れる曲は、もう聴くことはできないだろう。

09,2,2 the pillows 『PIED PIPER GO TO YESTERDAY』(記事を読む
「PIED PIPER TOUR」ディスクに収録された未発表曲の<Melody>
 どうでもいいことなんだけど、この会場のどこかにtheatre project BRIDGEの役者、渡邉香里と渡邉優子姉妹がいるはずです。さらにどうでもいいことなんだけど、このディスクの特典映像に収録されている、9,21のZepp Tokyoでのアンコール時、ボーカル山中さわおが発した「いやあ、この世に音楽があって良かったよ」という一言に、他の観客はシーンと聞き入っているにも関わらず、そんな周囲の空気も読まずに「キャー!」と叫んでいるのは、theatre project BRIDGEの役者鳥居沙菜とスタッフ松野友香です。

09,2,9 相対性理論 『ハイファイ新書』(記事を読む
<地獄先生>PV
 全国のCDショップ店員が選ぶ「CDショップ大賞」の第1回大賞に、相対性理論のデビュー・アルバム『シフォン主義』が選ばれた。今年もっとも注目されるバンドの一つ。

09,2,19 THE VASELINES 『THE WAY OF THE VASELINES ・ A COMPLETE HISTORY』(記事を読む
ヴァセリンズには、本人たちが映っていて、なおかつ質のいい映像がほとんどない。
なので曲だけの紹介。曲は<Molly’s Lips>

続いて、同じ曲をニルヴァーナが演奏しているのがこれ
 カートとコートニーの間に生まれた女の子フランシス。その名前の由来はヴァセリンズのボーカル、フランシス・マッキーである。

09,2,23 くるり 『ワルツを踊れ』(記事を読む
<ブレーメン>を演奏するくるり。オーケストラと一緒というステージングはなんだか少し気恥ずかしいのだが、曲は本当にいい
 ついに今週、最新作『魂のゆくえ』がリリースされた。今回のレコーディングはニューヨークで行われたそう。『ワルツを踊れ』がレコーディング場所のウィーンという土地柄を非常によく体現していたアルバムだったが、果たして今回はどうなるのだろう。

09,2,26 ミドリ 『セカンド』(記事を読む
<ドーピング☆ノイズノイズキッス>PV(画像粗いです)
 先日リリースされたジュディ&マリーのトリビュート・アルバムでは、大塚愛や中川翔子なんかに混じって参加し、<ミュージックファイター>をカバーしていたミドリ。ジュディマリのなかでもアバンギャルドな曲を、ミドリはさらにアバンギャルドにアレンジしていて、当然のことながら他の曲からものすごく浮いていた。だが、原曲の枠内を目一杯使ってもっとも「遊んで」いたのは間違いなくミドリである。ジュディマリ好きの2,30代OLなんかには理解してもらえないだろうが、間違いなく、今もっとも才能溢れるバンドの一つ。

09,3,9  Mates Of State 『Re-Arrange Us』(記事を読む
<Get Better>のPV
 本文で彼らのことを「オルタナなカーペンターズ」と書いたけど、あながち的外れな評価ではないことが、ビデオを見てもらえればわかってもらえる…かな?


 本ブログは元々、僕の所属する劇団theatre project BRIDGEのホームページ内の一コンテンツとして始めたものです。読んでくれている方のほとんどが、おそらく劇団経由でこのブログにたどり着いているんだと思います。

 劇団は今年で結成9年目になりますが、この劇団員のブログコーナーは意外と歴史(?)が長く、確かホームページを立ち上げてからすぐに始めたと記憶しているので、多分6,7年は続いているのではないでしょうか。まだ当時はブログというものがなく、写真も載せられなければコメント欄もない、ただ文字を載せるだけの「ウェブ日記」でした。

 当初は僕も日記を公開していたのですが、何の変哲も無い日常を面白おかしく書く能力に乏しく、そもそも僕個人の日々の生活を公開することに果たして意味はあるのだろうか?と、なんとなくネガティブな気持ちが抜けず、3年ほどは書き続けたものの結局閉鎖してしまいました。

 そういうわけで、昨年末、久しぶりにブログを書こうと思い立ったときも、端から日記を書こうという選択肢はなく、代わりに普段聴いている音楽や、本や映画のことだけを書こうと思ったのです。

 このブログが素敵な作品との出会いのきっかけになればとても嬉しいです。そして、願わくば、「このブログを書いている人間は果たしてどんな作品を作っているのだろう?」と、theatre project BRIDGEの芝居を観に劇場に足を運んでくれたら幸いです。うん、そうなったら本当に嬉しいなあ。

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バッグのなかには
いつも彼の小説があった

 僕は19歳のとき、大学1年生の夏に高校時代の仲間と劇団を旗揚げした。特に芝居に深い根拠があったわけではない。大学のどこにも居場所が見つけられなかったからだ。

 1年間の浪人生活を経て意気揚々と入学した大学に、僕はまったく馴染むことができなかった。同級生の交わす会話は、週末の飲み会とバイトの時給の話題しかなかった。教授は生徒が私語をしようが眠ろうがそんなことを気にも留めず、難解な話を独り言のようにボソボソと呟き、教室には空疎な時間だけが延々と流れていた。僕は大学というものに何一つ共通点を見出すことができなかった。その失望と不満とさみしさのはけ口を、僕は大学の外に求めたのである。

 劇団を旗揚げして2年目に、僕は初めて台本を書き、演出をすることになった。これについても、創作に対して特別情熱があったわけではない。今思えば、大学という本来いるべき場所からドロップアウトして、いわば緊急避難用のシェルターとして作った劇団を、オリジナルの作品を上演することで少しでも胸の張れる場所にできるようにしたかったのだと思う。「何もかも自分たちで作ってるんだ、すごいだろ」と、大学に対して見返してやりたかったのだ。そうすることで、「大学から逃げた」という罪悪感を消したかったのだ。

 オリジナル作品への挑戦はとても楽しいものだった。劇団のメンバー全員が「世界にたった一つしかないもの」を作ることにずっと興奮していた。だが、このことは同時に、僕と他のメンバーとの関係を大きく変えた。僕が台本を書き、演出を担当したことで、単なる友人同士として、いわば全員が横並びで始まった関係が、指示する人間と指示を受ける人間に分かれたのである。僕らは友人という関係から、「演出家」と「役者・スタッフ」という関係に変わった。

 最初からこの立場で劇団を始めていたら違っただろう。だがそのときの僕はこの関係の変化に戸惑った。多分他のメンバーも同じだったと思う。僕は次第に劇団の活動以外ではメンバーと会わなくなり、メンバーも僕を持て余すようになった。

 その頃、メンバーの多くが大学3、4年生になり、就職や進学で各自が徐々に劇団と距離を取り始めていた。でも、大学を捨ててきた僕に戻れる場所は残されていない。僕には劇団しかなかった。僕は誰からも認められる優れた芝居を書こうと焦っていた。しかし、そんなものは一向に書けなかった。大学で感じた孤独を埋めようと劇団を作ったのに、僕はさらに孤独になり、そして無力だった。

 ちょうどその頃、僕のバッグのなかにはいつも村上春樹の本が入っていた。

 彼の作品が気持ちを癒してくれたとか、何か爽快感を与えてくれたとか、そういうことじゃない。『1973年のピンボール』も『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』も、ページをめくるたびに僕は痛みを感じた。彼の全ての作品に漂う、世界の輪郭がゆっくりと失われ、自分一人が暗闇に取り残されていくような不安と孤独。そのどれもが僕自身の不安と孤独だった。村上春樹の作品は僕にとって、いわば鏡だったのだ。僕は来る日も来る日も彼の作品ばかりを読み、そしてそこに映る自分の姿を確認しては、「まだ生きている」「まだ大丈夫だ」と、千切れてしまいそうな心をなんとかつなぎとめていた。

 それからだいぶ時間が経った。劇団はまだ続いているし、当時のように暗くて辛くて惨めな気持ちになることは、少しずつ減ってきている。だがそれは、不安と孤独が消えたわけではない。ただそういう感情から目をそらし、やり過ごし、上手く付き合う方法を知っただけだ。僕は何も変わっていない。

 村上春樹を読むことは、心の奥にしまってある不安や孤独を、封を開けて一つひとつ取り出してみる、棚卸しのような作業である。時にそれは痛みを伴い、気持ちを深い闇のなかへと沈ませる。だが、僕は彼の作品を読むことで、自分自身を更新しなおしているのだと思う。好きだから、おもしろいから、ということではなく、僕にとって村上春樹は、大げさに言えば「読まなくてはならないもの」であり、とてもとてもパーソナルな作家なのである。

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