『1Q84』 村上春樹 (新潮社)
バッグのなかには
いつも彼の小説があった
いつも彼の小説があった
僕は19歳のとき、大学1年生の夏に高校時代の仲間と劇団を旗揚げした。特に芝居に深い根拠があったわけではない。大学のどこにも居場所が見つけられなかったからだ。
1年間の浪人生活を経て意気揚々と入学した大学に、僕はまったく馴染むことができなかった。同級生の交わす会話は、週末の飲み会とバイトの時給の話題しかなかった。教授は生徒が私語をしようが眠ろうがそんなことを気にも留めず、難解な話を独り言のようにボソボソと呟き、教室には空疎な時間だけが延々と流れていた。僕は大学というものに何一つ共通点を見出すことができなかった。その失望と不満とさみしさのはけ口を、僕は大学の外に求めたのである。
劇団を旗揚げして2年目に、僕は初めて台本を書き、演出をすることになった。これについても、創作に対して特別情熱があったわけではない。今思えば、大学という本来いるべき場所からドロップアウトして、いわば緊急避難用のシェルターとして作った劇団を、オリジナルの作品を上演することで少しでも胸の張れる場所にできるようにしたかったのだと思う。「何もかも自分たちで作ってるんだ、すごいだろ」と、大学に対して見返してやりたかったのだ。そうすることで、「大学から逃げた」という罪悪感を消したかったのだ。
オリジナル作品への挑戦はとても楽しいものだった。劇団のメンバー全員が「世界にたった一つしかないもの」を作ることにずっと興奮していた。だが、このことは同時に、僕と他のメンバーとの関係を大きく変えた。僕が台本を書き、演出を担当したことで、単なる友人同士として、いわば全員が横並びで始まった関係が、指示する人間と指示を受ける人間に分かれたのである。僕らは友人という関係から、「演出家」と「役者・スタッフ」という関係に変わった。
最初からこの立場で劇団を始めていたら違っただろう。だがそのときの僕はこの関係の変化に戸惑った。多分他のメンバーも同じだったと思う。僕は次第に劇団の活動以外ではメンバーと会わなくなり、メンバーも僕を持て余すようになった。
その頃、メンバーの多くが大学3、4年生になり、就職や進学で各自が徐々に劇団と距離を取り始めていた。でも、大学を捨ててきた僕に戻れる場所は残されていない。僕には劇団しかなかった。僕は誰からも認められる優れた芝居を書こうと焦っていた。しかし、そんなものは一向に書けなかった。大学で感じた孤独を埋めようと劇団を作ったのに、僕はさらに孤独になり、そして無力だった。
ちょうどその頃、僕のバッグのなかにはいつも村上春樹の本が入っていた。
彼の作品が気持ちを癒してくれたとか、何か爽快感を与えてくれたとか、そういうことじゃない。『1973年のピンボール』も『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』も、ページをめくるたびに僕は痛みを感じた。彼の全ての作品に漂う、世界の輪郭がゆっくりと失われ、自分一人が暗闇に取り残されていくような不安と孤独。そのどれもが僕自身の不安と孤独だった。村上春樹の作品は僕にとって、いわば鏡だったのだ。僕は来る日も来る日も彼の作品ばかりを読み、そしてそこに映る自分の姿を確認しては、「まだ生きている」「まだ大丈夫だ」と、千切れてしまいそうな心をなんとかつなぎとめていた。
それからだいぶ時間が経った。劇団はまだ続いているし、当時のように暗くて辛くて惨めな気持ちになることは、少しずつ減ってきている。だがそれは、不安と孤独が消えたわけではない。ただそういう感情から目をそらし、やり過ごし、上手く付き合う方法を知っただけだ。僕は何も変わっていない。
村上春樹を読むことは、心の奥にしまってある不安や孤独を、封を開けて一つひとつ取り出してみる、棚卸しのような作業である。時にそれは痛みを伴い、気持ちを深い闇のなかへと沈ませる。だが、僕は彼の作品を読むことで、自分自身を更新しなおしているのだと思う。好きだから、おもしろいから、ということではなく、僕にとって村上春樹は、大げさに言えば「読まなくてはならないもの」であり、とてもとてもパーソナルな作家なのである。
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