Fishmans 『Neo Yankees’ Holiday』
「ただそれだけのこと」に
大人になった僕は救われる
大人になった僕は救われる
ヒットチャートの常連になるようなメジャーな存在ではないけれど、好きな人はどうしようもないくらい好きなアーティスト。それをよく「コアな人気」「伝説のバンド」なんていう風に形容するけれど、果たしてフィッシュマンズをその程度の言葉で片付けていいものなのだろうか。彼らが邦ロックシーンに残したインパクトはあまりに巨大だ。
1987年に結成され、91年にメジャー・デビューを果たしたフィッシュマンズ。ダブやレゲエをベースとした彼らのロックは、当時のメイン・ストリームとは明らかに一線を画している。だが、耳のいいリスナーを中心にアンダーグラウンドで人気を広げ、解散して10年も経った今もなおロックファンに圧倒的な存在感を放っている。
この『ネオ・ヤンキーズ・ホリデイ』は93年にリリースされた彼らの3枚目のアルバム。<いかれたBaby><エヴリデイ・エヴリナイト><Walkin’>など、その後の彼らのパブリック・イメージを形成した名曲ばかりが収録された、初期フィッシュマンズの傑作と名高い作品である。
全ての楽曲の作詞作曲を担当するのは、ボーカルの佐藤伸治。フィッシュマンズというバンドは、極論を言えば佐藤のもつ世界を形にするための、いわば専門ミュージシャン集団である。
佐藤の作る曲には、例えばドラマチックな愛であったり、渾身の人生賛嘆であったりといった“仕掛け”は何もない。ただの日常、何も起きない退屈な日常だけがそこにある。天気のこと、付き合って何年も経つ恋人のこと、大好きなタバコのこと、そういった具合である。
ただ、それだけのこと。しかし、その「それだけのこと」が、なぜこんなにも優しく響くのだろう。佐藤の、背筋がゾッとするようなハイトーン・ヴォイスと相まって、どの楽曲も地上から数センチ浮いているような奇妙な浮遊感を漂わせている。なのに、歌詞もサウンドもズシンと重く沈み込んでくる。
僕がまだ10代の頃、自分の未来には、何か大きなドラマが待っていると信じていた。恋愛は素敵で、仕事は興奮に満ちていて、人生とはそういった劇的な出来事を重ねながら、まるでオリジナルの世界地図を作るようにワクワクしたものだと思っていた。
だが、年を重ねるごとに、現実は必ずしもそうではないと思うようになった。どう足掻いても日常は退屈であり、どこまで進んでも何も起きないし、何も変わらないと、悲観的な気持ちではなく、単に夢から醒めたように僕は僕のリアルを理解した。
それでも、心の中にはどこか淡い期待があることも否定できない。そして、その期待を満たしてくれるような一瞬の夢が見たくて、本を読み、音楽を聴き、映画を観るのかもしれない、とも思う。だとするならば、「何も起きない、何も変わらない退屈な日常」を歌うフィッシュマンズは、ある意味傷をえぐるように痛いのである。
だが、痛さがそのまま嫌悪感になるかというと、違う。傷を覆い隠すのではなく、傷に触れることが救われることだってあるのだ。「人生はドラマだ」と言われるよりも、「人生は何も起きない」と言われた方が、元気をもらえることだってあるのだ。フィッシュマンズは僕にとってそういうバンドである。
99年、佐藤伸治は心不全のため他界し、フィッシュマンズは活動を休止する。佐藤の死後はドラムの茂木欣一(現・東京スカパラダイスオーケストラ)が中心となり、ゲストボーカルを迎えながら、単発のライヴなどを行っている。
<いかれたBaby>を演奏するフィッシュマンズ
そしてこれが、05年のライジング・サン・ロックフェスティバルで演奏された<いかれたBaby>。ゲストボーカルの豪華な顔ぶれから、フィッシュマンズの人気の広さと高さがわかる
※次回更新は8月31日(月)予定です