BOB MARLEY & The WAILERS 『UPRISING』
激しく燃えさかる炎が
静かな祈りに変わるとき
静かな祈りに変わるとき
彼の音楽を聴いたことがあるかどうかはともかく、ボブ・マーリーという名前を知らない人はいないと言っていいんじゃないだろうか。没後30年になろうという今もなお聴き継がれ、語り継がれるレジェンド・オブ・ロック。今更紹介することなど気が引けるほど、その名前はあまりに大きい。
音楽史には彼の他にも、例えばジョン・レノンやジミ・ヘンドリックスといった、同様のスケールを持つ巨人たちが存在する。だが、ボブ・マーリーという名前の響きは特に異質であるように思う。彼の音楽には、他のレジェンドたちとは異なる“重さ”を僕は感じる。この重さを抜きに、ボブ・マーリーの音楽を聴くことはできない。
僕が最初にボブ・マーリーを聴いたのは高校生の頃だった。「のんびりしてていいな」というのが最初の印象。初めて聴くレゲエのリズムはゆったりとしていて優しく、燦々と輝く南の太陽を想起させた。
しかし、歌詞カードを読んだ僕は、その印象を真逆へと改めなければならなかった。貧困と飢餓、暴力と差別。そこには第三世界の壮絶な現実と権力に対する激しい怒りが綴られていたからだ。今まで読んだどの歌の歌詞よりも、切迫した生々しさがあった。フレーズの一つひとつに、血と涙が滲んでいるようだった。リズムと言葉とがあまりに不揃いなこの音楽をどう聴いてよいのかわからず、僕は混乱した。
ボブ・マーリーの音楽は、常に「戦い」という2文字を負っている。戦いを鼓舞し、戦い疲れた者を癒す音楽だ。彼の音楽の持つ重さとは、今まさに戦いの渦中にいる当事者だけが持つ重さである。そこが、例えばジョン・レノンやボブ・ディランの歌詞とは根本的に異なるところだ。
だから、彼の音楽に本当の意味でのリアリティを感じることができるかと聞かれれば、「否」と答えざるをえない。日本という安全地帯に生まれ育った僕は、60〜70年代のジャマイカやアフリカに感情移入できるほどのバックグラウンドを持ち合わせてはいないのだ。
それでも僕は彼の音楽に魅かれる。その重たさゆえに、なかなか片手間に聴くことを許してくれない音楽だけど、僕は彼の歌を聴き続けている。僕だけではなく、世界中の人が彼の音楽を聴いている。それはなぜなのだろう。
1980年にリリースされた『UPRISING』は、ボブ・マーリーの遺作となったアルバムでもある。この翌年、彼は亡くなる。
本作のレコーディング中からすでに体調が優れなかったらしい。死を前にした彼の心理を反映してか、このアルバムにおける怒りの表現は過去の作品とは微妙に異なる。『BURNIN’』(‘73)や『SURVIVAL』(’79)が激しく燃える赤い炎だとしたら、この『UPRISING』は静かに燃える青い炎。怒りと悲しみは、鋭く研がれた刃ではなく、祈りによって表現されている。このアルバムにおける彼の歌声はいつになく優しい。
なぜボブ・マーリーは、激しい怒りと嘆きの言葉を、ゆったりとしたレゲエのリズムで表現したのか。それは彼の音楽が、戦いの音楽であると同時に、祈りの音楽でもあるからなのだと僕は思う。そして、怒りは共有できなくとも、祈りは国境や時代を超えてすべての人の胸を打つ。なぜなら、祈りとは人の持つ優しさが紡いだものだからだ。
アルバムのラストを飾る<REDEMPTION SONG>で、ボブ・マーリーはこう歌う。「俺が今まで歌ってきたのは、すべて救いの歌なんだ。自由を求める俺たちの救いの歌なんだ」と。この“俺たち”のなかには、多分僕も含まれている。
ライヴで<REDEMPTION SONG>を演奏するボブ・マーリー