電車も車もない時代
シベリアを横断した日本人がいた

 「おろしやこくすいむたん」と読む。発音するときには、「おろしやこく」と「すいむたん」で呼吸を分けて読むのが正しい。「おろしや国」とはつまりロシアのことである。

 この本の主人公は、江戸時代後期の船頭、大黒屋光太夫とその仲間たち。実在の人物である。1782年、彼らは船で江戸へ向かう途中に遭難し、そのまま流されてアリューシャン列島へと流れ着き、その後ロシアを延々と漂泊することになる。『おろしや国酔夢譚』は、そんな光太夫たちの数奇な運命と壮大な冒険を描いた物語だ。

 彼らがどういう足どりを辿ったかを書いてみる。大黒屋光太夫以下17人の船乗りを乗せた海上輸送船、神昌丸が伊勢の白子(今の三重県)を出港したのが前述の通り1782年。だがほどなく嵐に見舞われ、舵を折られた神昌丸は漂流する。漂流生活は8ヶ月間。この間に水夫1人が死ぬ。

 8ヶ月後、潮に乗るままに船が辿り着いたのはアリューシャン列島に浮かぶアムチトカ島。光太夫たちは荒涼としたこの北の最果ての島で、4年もの歳月を過ごす。この間、7人もの仲間が飢えと病で死ぬ。残された9人は、流木を材料になんと自分たちの手で船を作って島を脱出する。

 ここからが長い。アムチトカを離れた彼らはカムチャッカ半島のニジネカムチャツクに上陸する。ここにはロシア政府の出先機関があった。日本の方角すら定かではない光太夫たちは、ロシア政府に日本送還用の船を出してもらえるよう、援助を求めるしかなかったのだ。

 だが、固陋な官僚組織に阻まれて彼らの願いは一向に聞き届けられない。このニジネカムチャツクで、さらに3人が死んでしまう。待っていても埒があかないと考えた光太夫一行は、より強い決定権を持つ政府高官に訴えるべく、ロシア内陸への旅を決意する。

 カムチャッカから海を渡りオホーツクへ、そしてヤクーツク、イルクーツクと、極寒のシベリア内陸部を彼らは進んだ。「極寒」と簡単に書いたが、冬の最低気温が零下70度なんていう、地球上でもっともすさまじい土地を、馬とそりで何ヶ月も旅するのである。文字通り死を覚悟した旅である。

 一行は決死の旅程を経てイルクーツクの総督府へ訴え出たものの、依然として事態は進展しない。光太夫は、一縷の望みを賭けて、時の女帝エカチェリーナ2世に帰国の願いを直訴しようと、帝都ペテルブルグにまで足を延ばすのだった。ペテルブルグはバルト海にほど近い、地図で言えばほぼヨーロッパといっていい西の果ての都だ。つまり光太夫は、馬とそりと徒歩だけでシベリア大陸を横断したことになる。
 

 その後光太夫がどうなったのかは、是非小説を読んで確かめてもらいたい。ただとにかく強調したいのは、これがファンタジーではなく事実であるということだ。

 彼が辿った道のりはおよそ4万キロ。地球一周分である。距離というものは交通手段の速度と快適さによってその認識が変わるものだ。飛行機も列車もない200年前に身体一つでシベリアを横断したという事実は、到底現代のスケールで計ることはできない。さらにロシア語を難なく話せるまでに習得した知性、最高権力者との謁見にまで漕ぎつける胆力、そして何度も挫折しそうになりながらも希望を捨てなかった意志と勇気。光太夫の姿からは過酷な運命に負けない人間の力強さというものを、殴られたような衝撃でもって感じさせられる。

 この『おろしや国酔夢譚』は1992年に映画化されている。ちなみに上の画像はそのDVDの表紙。ストーリーは大幅に省略され、またキャラクターもデフォルメされているが、少しも面白さは損なわれていない。緒形拳演じる知的で清廉な大黒屋光太夫は、原作のイメージ以上である。

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