大黒屋光太夫が辿った道を追跡する
『おろしや国酔夢譚』サブテキスト

 前回『おろしや国酔夢譚』のことを書いたのだけれど、そもそも大黒屋光太夫という人物に興味をもったきっかけは、以前紹介した椎名誠の『蚊學ノ書』だった。

 この本のなかに、シベリアの蚊の話が出てくる。シベリアは冬は一面雪と氷で閉ざされているが、夏になり氷が解けると想像を絶するほどの夥しい蚊が発生する。馬に乗ってタイガと呼ばれる針葉樹林帯を進んでいたら、時に馬も人も霞んで見えなくなるほどの蚊に襲われた、なんていう記述があった。

 実はこのとき、椎名はあるテレビ番組の取材でシベリアを訪れていたのである。これはTBSが企画した『シベリア大紀行』というドキュメンタリーで、『おろしや国酔夢譚』に沿って大黒屋光太夫が漂流した足跡を実際に追ってみる、という内容のもの。飛行機も列車も使わず、わざわざ馬に乗ってタイガに分け入ったのは、当時の移動手段を再現していたからである。

 『蚊學ノ書』を読み終えた後、僕は試しにYouTubeで調べてみた。そしたらなんとこの『シベリア大紀行』が丸々アップロードされていたのである。早速視聴したのだが、これは二部構成総尺4時間超という超大型番組で、全て観るのに2日を要した。

 番組は椎名誠がレポーターになり、アムチトカ島から始まって、カムチャッカ、オホーツク、と本当に一歩一歩光太夫たちが歩いた道と同じルートを辿るという、シンプル且つストレートなドキュメンタリーだった。

 北半球最極寒地域といわれる真冬のヤクーツクの映像は本当に圧巻で、マイナス50度とか60度とかの空気すら凍ってしまう世界で暮らしている人々や動物の姿というものには、粛然とした美しさを感じた。そして、車もエアコンもない200年前に、そのような厳しい世界を踏破した大黒屋光太夫という人物に、僕は猛烈に興味を持ったのである。

 今回紹介する『シベリア追跡』は、椎名誠が番組の取材を通してつぶさに見てきたシベリアの大自然や大黒屋光太夫への思いなどを綴ったエッセイである。番組は『おろしや国酔夢譚』のいわばサブテキストとしての内容を持っているが、この『シベリア追跡』はさらにその番組のサブテキストといった感覚のものだ。つまりサブテキストのサブテキストである。

 番組『シベリア大紀行』はとても古い。放映は1985年である。つまり椎名たちが取材したのはロシアではなく旧ソ連の時代なのである。光太夫が訪れたペテルブルグも、旧ソ連時代の名称「レニングラード」と紹介されているのだ。そのためこの番組は、光太夫の冒険の追跡行という以外に、かつての共産国の街や村や人々の様子を映した記録映像としても観ることができる。

 エッセイ『シベリア追跡』では、番組では放映されなかった旧ソ連独特の出来事、例えば恐ろしくサービスの悪いレストランのことや、取材時に必ず同行し「あれを撮ってはいけない」「ここから先は入ってはいけない」と何かと神経質なKGBのことなどが面白おかしく書かれている。

 今となってはどれもほのぼのと笑ってしまうようなエピソードだが、けれどたかだか20年前のことなんだよなあと思うと、旧ソ連の解体から近年の目覚しい経済的政治的発展に至るこの国のダイナミックな底力に唸ってしまう。

 このときに椎名自身が撮った写真とそのキャプションをまとめた『零下59度の旅』という本がまた別に刊行されていて(つまりサブテキストのサブテキストのサブテキスト)、こちらはシベリアに暮らす人々の日常の風景だけを収めた、とても人情味溢れるフォトエッセイとなっている。椎名誠の旅行記はいつも、その土地に暮らす人々へのユーモア溢れる愛情に満ちていて、読むと自分もその人たちに会いたくなる。


85年制作『シベリア大紀行』。長いけど面白いです

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