『空海の風景』 司馬遼太郎 (中公文庫)
縦横無尽の文体で
「空海」の実像に迫る
「空海」の実像に迫る
ずいぶん前に空海直筆の書、というものを見たことがある。たしか『風信帖』だった。空海といえば嵯峨天皇、橘逸勢と並んで三筆の一人に列せられているだけに、その筆跡を目の当たりにしたときは、「これが!」と興奮したのを覚えている。だが今振り返ってみれば、その興奮は結局「史上有名な人物の生きた痕跡を見た」という、単なる体験としてのショックでしかなく、あのとき僕のなかに空海に関する知識なり興味なりがあれば、もっと深く眺めることができただろうにと悔やまれる。
空海。彼について知ることといえば、遣唐使で唐に渡ったこと、そこで密教を学んで日本に持ち帰り真言宗を開いたこと、高野山、東寺、『性霊集』・・・その程度だ。要は学校で習う、通り一遍の知識しかないわけである。
彼はかなり多筆の人だったらしく、同時代の人物と比べると史料は残っている方なのだが、その大部分は仕事(仏教)に関するものであり、空海が人としてどういう風合いの人物だったのかを知るには限りがあるようだ。個人的な書簡などが多数書かれた形跡はあるが、書簡そのものは1千年の間に紛失したり、焼失したりしている。残した仕事量の大きさに対して、当人の人生について知るところがあまりに少ないという点では、空海ほど謎に満ちた人物はいないかもしれない。
史料に限りがあるとすれば、あとは想像力で埋めるしかない。つまり小説の出番である。空海を描いた小説は決して多くはないのだが、あることはある。その筆頭に挙げられるのが、司馬遼太郎の『空海の風景』だ。
もっとも、この本は一般的な意味での「小説」というカテゴリーには含まれない。なぜなら1本のストーリーとしては成立していないからだ。
空海の人生には空白の期間が多い。どの史料からも彼の姿が忽然と消えてしまった時期というものが、あちこちに存在する。空海の人生をストーリーとして、伝記的に描くには自ずと空想に頼る部分が増えることになるが、それでは空海の実像から離れた、ただの「フィクション」になってしまう。そう考えた司馬は、「半小説・半エッセイ」のようなハイブリッドな文体で空海を追うことにした。
例えば文中、空海の台詞を「」で記す小説的部分もあれば、当時の国際情勢の解説や司馬自身の探訪記が続くこともある。「以下の部分は空想である」などと断ってから小説風に場面を描くことさえある。内容よりもまず、その開き直った文体が読んでいて面白い。
以前、『翔ぶが如く』を紹介した際に、司馬作品は全て“紀行文”である、と書いたが、この『空海の風景』における縦横無尽の語り口は、その最たるものである。この本は空海を描いた小説というよりも、「空海」という名の長大な旅程を、時に地を歩き、時に空から見下ろすようにして描いた紀行文なのである。
それにしても、「宗教」というのはよくわからない!
「人間は地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、そして天上という六趣の世界を輪廻する」とか、「弥勒は釈迦の没後56億7,000万年後に地上に生まれ出る仏のことで、そのときに弥勒が救う人類の数は、第1回に96億人、第2回に94億人、第3回に92億人である」などと、お経にはこの世界のあらあしについて事細かに書かれているわけだけれど、それは信心の足りない僕などからすると、どうも単なる一編の“物語”としか思えないのである。
「弥勒」とか「菩薩」とか、「欲界」とか「兜率天」とか、そういうキーワードは知識としては理解できる。だが、それらが「ガンダム」とか「ヱヴァンゲリヲン」とか、「宇宙世紀」とか「第三新東京市」などという言葉とどう本質的に異なるかがわからない。つまり宗教というものに対して、「壮大なフィクションと、それを真実として信じる人たち」という以上の理解が、今のところ僕にはできないのである。
だがもちろんのこと、それは僕の見方が浅いせいなのだろう。どの宗教にも長い歴史があるわけで、歴史があるということは何がしかのリアリティを人々に与えてきたわけで、決してバーチャルなものではないはずだ。『空海の風景』を読んで一番に感じたのは、自分の理解が追いつかないことへの苛立ちである。今年はちょっと腰を据えて、宗教について学んでみようかなと思った。
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