「出来損ないのカメレオン」が
全てにサヨナラを告げた日

 ピロウズが結成20周年を迎える今年、初の武道館でのワンマンライヴを行うことになった。

 1989年に結成し、91年にメジャーデビューを果たしたピロウズ。そのキャリアは決して順調なものではなかった。現在の彼らの曲しか知らない人が、初期ピロウズの曲を聴くと、その違いに驚くだろう。初期の彼らはストーン・ローゼズやザ・スミスのようなフワフワとトリッピーな音色のギターを鳴らす、洋楽の、とりわけブリティッシュのサウンドを色濃く体現したバンドだった。だが当時の邦楽シーンには、まだ彼らのような本格派の洋楽バンドを受け入れるほどの素養は育っていなかった。

 思うような評価が得られず、ピロウズは迷走する。93年にはバンドの生みの親でもあったベースの上田ケンジが脱退し、一時的に活動を休止。その後事務所を移り活動を再開させ、ボサノヴァやフレンチ・ポップ、ジャズなどにまでサウンドの模索を広げるものの、セールスは依然として停滞し、メンバーとレコード会社など周囲との葛藤は日に日に深刻さを増していった。状況を打破すべく、レコード会社のタイアップ戦略を受け入れて商業的な成功を狙ったシングル『Tiny Boat』も低調に終わり、ピロウズは出口の見えない闇の中へ完全に落とされる。

 そのような失意のどん底で、ボーカル山中さわおは『ストレンジカメレオン』を作る。良いと思って作った曲がことごとく受け入れられない自らを「周りの色に馴染まない出来損ないのカメレオン」と喩えた歌詞と、かつてないほどに重く歪んだギターの音。この『ストレンジカメレオン』は、それまでのバンドの音楽性を根底から覆すような曲だった。

 契約を切られ、再びインディーズへと戻ることも辞さない覚悟でリリースしたこのシングルは、結果FMチャートで2位を獲得し、直後に予定していたライヴのチケットは即日完売する。ようやく、少しだけ、それまで彼らを覆っていた暗闇に光が射したのである。

 この『ストレンジカメレオン』を収録したアルバム『Please Mr. Lostman』が、今日のピロウズ・サウンドの祖形であり、20枚近くある彼らのアルバムのなかで間違いなく最重要な一枚だ。

 ギターの真鍋吉明は、かつてインタビューでこのアルバムを「音楽業界への遺書」だと語っていた。レコード会社や事務所がいくら反対しても、これからは自分たちが信じる音楽だけを鳴らそうと決意したピロウズは、『Please Mr. Lostman』を作ることで当時のシーンにも業界にもサヨナラを告げたのである。

 このアルバムの持つ空気はとても痛々しい。誰にも理解されない孤独と、自分の感性への揺るぎない誇りと、そして「できれば僕の音楽を気に入って欲しい」という祈り。山中さわおは当時の心情を生々しく楽曲に叩きつけている。だがドメスティックでありながらこのアルバムが普遍性を持つのは、彼の曲が悲しみでも嘆きでもなく、「誇りある孤立」を選び取る勇気を謳っているからだ。

 サヨナラと告げて旅立ってから10年以上、ついにピロウズは武道館のステージに立つ。世界に居場所を見出せなかったLostman(迷子)が、長い時間をかけて多くの人に理解され、そしてかつては夢にも見なかった場所へとたどり着いたのだ。彼らの作る歌一つひとつに自分自身を重ね合わせてきた僕にとって、これは単なるバンドのサクセスストーリーなどではなく、もっと大きな希望と幸福の物語なのである。


<ストレンジカメレオン>PV

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「鬼気迫る」とは
彼女のことだ!

 白人女性ブルースシンガーの最高峰、ジャニス・ジョプリンの代表作であり、彼女の遺作となったアルバム。この『パール』のリリースを3カ月後に控えた1970年10月4日、ジャニスはヘロインの過剰摂取で亡くなってしまう。

 今から40年も前のアーティストである。ロック雑誌などで彼女のことが語られるとき、必ずと言っていいほどセットになるのが、ヒッピー・ムーブメントやサマー・オブ・ラブといった当時の世相やカルチャーだ。81年生まれの僕には、そういった時代の空気はよくわからない。

 僕が感情移入するのは、彼女の年齢である。享年27歳。その若さで、なぜこれほど鬼気迫る歌声を聞かせられるのか。同い年の僕は、ただただ圧倒される。


 高校時代からシンガーを志したジャニスは、20歳のときに地元テキサスを離れ、ヒッチハイクをしながらサンフランシスコを目指す。当時のサンフランシスコはヒッピーなど当時の若者文化のメッカというべき街。彼女はそこで、コーヒーバーなどで歌いながら歌手になるチャンスを待ち続ける。

 転機は24歳のときに訪れる。67年に行われたモントレー・ポップ・フェスティバル。20万人以上を動員し、ジミ・ヘンドリックスがギターを燃やしたことでも有名な、伝説の野外コンサートである。前年に加入したビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーのボーカルとしてステージに立ったジャニスは、その圧倒的なステージングで聴衆からも音楽業界からも一躍注目されることになる。

 その後バックバンドを変えながら3枚のアルバムをリリースし、ウッドストック・フェスティバルをはじめ、大規模なステージでライヴを行い、大スターとなったジャニス。そんな彼女が、新たに結成されたバックバンド、フル・ティルト・ブギーとともに制作に挑んだのが、この『パール』だった。


 ジャニスは決して「美声」の持ち主ではない。以前本稿でシュガーキューブスを紹介したときに、ビョークの声を「地上でただ一つしかない楽器」と書いたけれど、ジャニスの場合はそれとは対照的。無数の引っ掻き傷を受けたかのようにかすれ、引きつれた歌声は、持ちうる情念の全てを叩きつけるかのようであり、そこには楽器的な美というよりも、一人の女性の人格そのものがさらけ出されたような生々しい迫力がある。まさに「ソウル」。

 女性シンガーだからと言って、ジャニスには「歌姫」という呼称は似つかわしくない。刹那的で激しく、夏の日のスコールのように歌うジャニスは、姫というよりもむしろ魔女のようだ。だがその魔女は、狂おしいほどに激しい雨を降らせた後、陽炎という名の儚く切ない夢を見せる。


件のモントレー・ポップ・フェスティバルでのジャニス

『パール』の1曲目<Move Over>。邦題は<ジャニスの祈り>

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