スパイスと日常。感情って笑い顔?
たまには、書いてみようと思う。
時々、ノリとか出来事だけを書いてると、ふと大切なものを忘れているような気がするから。 ある先輩のブログを見た。 その先輩は、特別な存在でも何でもない。ただ、お互いマイペースでしゃべれていたかもしれない。そして、なんとなく似た世界を見ているときがあるかもしれない。なんとなく。 何の変哲も無い生活を送ったり、何も新しいことの無い生活を送っていると、スパイスを求めたくなる。例えばそれが、人を好きになったりしてドキドキする事だったり、昔の悲しい事を思い出して自分で自分の胸を締め付けるようなものかもしれない。 でも、そういう行動をするのが、そういう欲求からくるものなのかなぁ〜と思うと、そこでまた年を感じる。そして、一直線にまっすぐ突き進むだけではなくなる。 そして、自分で自分にスパイスを与えておいて、昔だったらその辛さに耐え切れなかったろうけど、今では水を飲む事を知っているようだ。 スパイスは増やしたり減らしたり出来る。 例えば、外界からの刺激もある。映画や歌などだ。しかし、どちらも今の自分と照らし合わせて感情を増幅させるので、外界からではあるけれども自分の傷口に塩を塗っているのだ。もしくは、想像で傷を作っていると言えるかもしれない。 それらの傷を客観的に見られるようになった時に(自分のどこに傷があるのか分かるようになった時に)、そして、自分がその傷を求めているのかもしれないと思ったときに、やっと本当の自分の気持ちに気づき始める。 自分で傷を求めたために自分で作り出した気持ちなのか、それともそうではない純粋な気持ちなのか。 どちらでもいいのかもしれない。 でも、どちらでもいいからといって適当にしていると、うまくいかないことがある。 自分ひとりではなく、他の人も相手にしなければならない時、相手が求めているのは何なのか、知らなくてはうまくいかない…、かもしれない。 自然にしてればいい。 それが俺の思うところ。 …でも、この生活は自然だろうか? 紙幣があって、それぞれが仕事を分担している生活は、「生きる」事にたいして自然だろうか? 自分の自然な気持ちは、今住んでいるこの世の中が作り出した人工の自然な自分だ。 自然な自分と言われたときに、ネガティブの自然が出てきてしまう人は、きっと今の人工的なものに作られた自然なんじゃないだろうか。 ポジティブな自然が出てくるのなら、普段は何かに抑えつけられてるんじゃないだろうか。 それが抑えられてるのがもので無くて人であっても、その人はどういう生活を送っている人だろうか?本当に「自然に」生きている人だろうか。 「生きる」という事はどういう事か? それは弱肉強食の世界だと思う。 金銭でも権力でもなく、食べるために、生命を持たせるために一生懸命な状態。 「生きたい」という世界。 …果てのない話です。 しかし、今まで当たり前に生きてきた事が、実はとても不自然な事かもしれない。 「普通にしなさい」 その言葉が、重くのしかかるときがある。だって、自然にしてるのに、「普通にしなさい」と言われる。 ってことは、私の自然はあなたにとっては普通じゃないんでしょ?いや、きっと私の中では自然なんだけど、みんなにとっては不自然なんだと思う。 人はひとりひとり違う感性を持っている。 当たり前。違う事で悲しくなったりはしない。いや、しなくなったのかもしれない。分かるようになったから。 ただ、「生きる」事をしなくなったこの世の中には、それがばらばらになりすぎているような気がする。あまりにスパイスがなさすぎて。 「生きる」事に一生懸命なら、毎日自分からスパイスを作り出す事ができる。 そう思う。 何故かそんな事を思った。 それが今の私の自然。 ただ、それは人工の自然かもしれない。 ニュースを読んでるときに何故か笑い顔になってしまうのと同じように。 笑い声が笑っていないように聞こえるのと同じように───。
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