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『七人のロッカー』

 先日、『アンヴィル!夢を諦めきれない男たち』という映画を観ました。78年にカナダのトロントで結成されたヘヴィメタルバンド「アンヴィル」の現在の姿を追ったドキュメンタリー映画です。
 一時は日本にまでツアーを遠征するほどのスターバンドだったアンヴィルですが、人気はあっという間に衰え、その後はリスナーからもシーンからも忘れ去られてしまいます。そんな彼らは、デビューから30年経った今でも、地元トロントでバンド活動を続けていました。
 年齢はすでに50代、髪の毛も徐々に薄くなってきています。バンドの収入はほぼゼロ。ギター・ボーカルのリップスは給食の宅配員を、ドラムのロブは建築作業員をして生計を立てています。ライヴをやっても観客が10人以下なんてことは日常茶飯事、おまけにギャラが支払われないというトラブルにまで見舞われます。「ファッキンな新曲ができたぜ!」とレコード会社に売り込めば、「今の時代には合わない」と冷たく一蹴されてしまいます。
 それでもなお、彼らはバンドをやめようとはしません。家族や友人から白い目を向けられながらも、それでも彼らは新曲を書き、レコーディングし、ロックに夢を見続けているのです。リップスがテーブルをガンガン叩きながら、唾を飛ばしてこう言います。「ロックスターになるんだ!バカげた夢だが、絶対叶えてやる!」と。その姿はおかしくて、悲しくて、でも本当にステキで、僕は思わず泣いてしまいました。

 theatre project BRIDGEは来年の7月で結成10周年を迎えます。結成当時、地元神奈川には、僕らの他にも同世代の劇団がいくつかありました。しかし、僕が把握している限りでは、現在でも活動を続けているのはBRIDGEだけです。
 次々に活動をやめていく同期の劇団たちを見るたびに、僕は秘かに勝ち誇った気持ちになりました。しかしその一方で、まったく逆の暗い気持ちが胸の隅っこに広がるのも感じていました。なぜ僕らだけが残っているのか。芝居という夢の世界に留まっている自分たちよりも、「社会復帰」を果たしていく同期の方が、大人として正しい姿なんじゃないか。嫉妬と自己疑惑と孤独感が混じり合って、胸の奥に重くのしかかるのを感じていました。
 しかし、いざ台本を書いて稽古を始めてしまえば、そんなことはどうでもよくなるのです。たちまち楽しい気分でいっぱいになります。芝居の1本や2本じゃ僕らを取り巻く現実は何も変わらないけれど、それどころか社会生活と劇団との両立は年々厳しくなってきたけれど、それでもいつかは世界で一番面白い作品を作れるんじゃないか、途方もない数のお客さんが劇場に押し寄せるんじゃないか、そんな風に夢を見続けるのは、やっぱり楽しいことなのです。
 もしこの先20年、30年と劇団が続いたとしても、僕らはやっぱり、相も変わらず夢を見ていたい。腹の出た50歳過ぎのオジサンオバサンになっても、糖尿病や高血圧やリストラの恐怖と戦いながら、それでも僕らはまだ夢を見ていたい。ただその意志だけが、僕らが今ここにいる理由なのだと思います。

 本日はご来場いただき、本当にありがとうございました。
 そんなわけで、来年はいよいよ結成10周年記念公演です。タイトルは『バースデー』。今から6年前に上演した『500万年ララバイ』という作品を全面的に書き直します。再演と言いながら、99%新作です。
 この『バースデー』とともに、僕らはまた来年も、劇場であなたをお待ちしています。
 その日まで、僕らもあなたも、みんなで元気でいましょうね。

| 2009,11,21,Sat 14:00 | theatre project BRIDGE | comments (x) | trackback (x) |

『アイラビュー』

 22時になると先生が消灯時間を告げに来ました。僕らは聞き分けのいい生徒のフリをして、テレビを消して布団を敷き、部屋の明かりもちゃんと消して、冷えたシーツの上に体を横たえます。
 しかし、静寂は一瞬で破られます。ジャージと布団が擦れるシャカシャカした音が響きます。全員が布団をかぶったまま、イモムシ状態で部屋の中央に集まる音です。そして、誰からともなく口火を切ります。
 「じゃ、順番に好きな人言ってこうぜ」
 劇中の台詞にもあるのですが、修学旅行の夜というのはどうしてああもピンク色に染まるのでしょうか。明け方までに話した内容を総合すると、「恋の話9:その他1」くらいだったろうと思います。なかには、話題が恋の話から外れると眠って、再び恋の話に戻ると起きる、「省エネ」な奴もいました。
 恋の話をする時間はいくらあっても足りませんでした。1泊目の京都では話が終わらず、続きは2泊目の奈良に持ち越されました。歴史の名所も貴重な文化遺産も、僕らのエネルギーを鎮めることはできませんでした。僕らは肝心の恋愛そのものを、まだしたことがありませんでした。だからこそ、僕らの想像力は無尽蔵でした。
 やがて、みんなにも彼女というものができて現実の恋愛が始まると、例えばキスの仕方であったり、喧嘩をしたときの仲直りの仕方であったり、実践的な話が話題の中心となり、それはそれで僕らの興奮はヒートアップしました。彼女ができたと言えばそいつを囲んで夜通し祝い、彼女にフラれたと言えばみんなで海に集まって慰めました。
 
 あれから10年以上が経ちました。
 自分や劇団のメンバーのことを考えれば、相変わらず今でも僕らは恋や愛に右往左往している気がします。ただ、10代の恋愛が「好きか嫌いか」だけで語れたのに対して、20代の恋愛は「他人とどう関わっていくか」という命題に収斂されるものへと変化しました。仕事や結婚や出産といった現実的な問題を前にすれば、好きなのに、いえ、好きだからこそ、孤独を埋めてくれる存在が、新たな孤独を生む存在でもあることを知りました。恋愛が徐々にシビアになってきたからこそ、10代よりもむしろ今のほうが、僕らは恋や愛に右往左往している気がします。
 30代、40代の恋愛が前途に待ち構えています。今度は何がどう変わるのでしょうか。いくつになっても恋の始まりは新鮮で、失恋の悲しさは変わらないのでしょうか。もし、これから先も恋愛が、人生を前向きにする力を失わなければ、いつかきっと、僕らは30代、40代の『アイラビュー』を上演したいと思います。

 本日はご来場いただき、本当にありがとうございました。
 おかげさまでtheatre project BRIDGEは、ついに10回目の公演を迎えることができました。
 次回公演は、ずっとやりたかった、ロックをテーマにした音楽劇です。タイトルは『七人のロッカー』。この作品とともに、僕らはまた来年、劇場であなたをお待ちしています。
 旗揚げして8年、僕らはずっと元気でした。
 来年お会いできるその日まで、どうかあなたも、元気でいてください。

| 2008,11,22,Sat 14:00 | theatre project BRIDGE | comments (x) | trackback (x) |

『クワイエットライフ』

theatre project BRIDGEは旗揚げしてから4年間を学生劇団として過ごしました。
公演の打ち上げはいつも、僕らがアトリエと呼んでいた、舞台美術の作業場でした。
千秋楽の夜、アトリエの床一面に敷きつめられた新聞紙の上には、安いスナック菓子と、メンバーのお母さんが差し入れてくれた手料理が並びました。
狭いアトリエは、体育座りをしないと全員が入りきりませんでした。
勢いよく乾杯したものの、数ヶ月に及ぶ稽古と本番を終えた僕らの身体は、ほんの少しのアルコールですぐにふらふらになりました。
飲み始めて1時間もすれば、酔っ払った誰かがペンキの缶をひっくり返して大騒ぎをし、誰かは大声で歌い始めて近所から苦情をもらい、誰かはすでに毛布にくるまっていびきをかきました。
僕は、この光景がいつまで続くのかを考えていました。
酔いを醒まそうと外に出れば、道の真ん中で大の字になって寝ている奴がいて、その隣では空き缶を煙草の吸殻でいっぱいにしている奴がいました。
耳をすませば、遠くに東海道線を走る貨物列車の音が聞こえました。
僕はいつも、この光景がいつまで続くのかを考えていました。

今年、当時のメンバーと、地元でお酒を飲む機会がありました。
すでに大半が実家を出て、東京や地方で暮らすようになっていましたが、その日は偶然、特に約束をしていたわけでもないのに、かなりの人数が集まりました。
おでん屋の狭い座敷で、僕らは当時のように肩を寄せ合って座り、味付けの濃い大根や牛すじを奪い合い、焼酎をお湯で割りつづけました。
誰かが会社で昇進したと言えば乾杯し、誰かが結婚の報告をすれば歓声を上げました。
僕は幸せな気持ちでいっぱいになりました。
夜中の2時に店が閉まり、吐きそうになりながら外に出れば、昔のように誰かが道の真ん中で、歌を歌っていました。
相変わらずの汚い歌声を、みんなは当時と同じように罵倒しました。
僕も負けまいと歌いました。でも、舌が回らず、ちっとも歌になりませんでした。
改めて、あのアトリエでの時間が、再び訪れることはないだろうと僕は思いました。
僕らの人生は、もう二度と重なり合うことはないだろうと思いました。
でも、僕は幸せな気持ちでいっぱいでした。

本日はご来場いただき、本当にありがとうございました。
おかげさまでtheatre project BRIDGE は9回目の公演を迎えることができました。
来年の11月、10本目となる作品とともに、僕らはまた劇場で、あなたをお待ちしています。
旗揚げして7年、僕らはずっと元気でした。
来年お会いできるその日まで、どうかあなたも、元気でいてください。

みんなと別れ、まだ少し酔ったまま、僕は始発列車に乗り込みます。
7人がけのシートの端に座って、イヤホンを耳に当てます。
やがて列車は夜明けの中を、ゆっくりと動き始めます。
僕はたまっている洗濯物のことを考えます。
新しい一日が始まります。

| 2007,11,23,Fri 14:00 | theatre project BRIDGE | comments (x) | trackback (x) |

『Lucky Bang Horror』

 1枚の風景写真があります。
 写真に写る景色は例えば、山あいの小さな村。
 どこか遠い、日本ではない北の国の村です。四方を山に囲まれていて、村自体もなだらかな斜面の途中にあります。まるでふかふかの絨毯のような芝生と、濃い緑色をした針葉樹林が、午後の陽射しを受けて柔らかくそよいでいます。そしてその草木と草木の間に、ぽつんぽつんと、白い壁をした古い家が建っています。家と家は2軒以上並んで建つことはありません。1軒ずつ、草木の緑の合間に、母に寄り添う子供のような佇まいで建っています。
 この風景の中に、行ってみたいと思います。行くことができれば、と思います。

 1枚の風景写真があります。
 写真に写る景色は例えば、海が一望できる小高い丘の上に建つ、小さな家。
 その家の庭で何人かが、水平線に沈む夕日を眺めています。皆ビールを手にしていて、ある者はデッキチェアに寝そべりながら、またある者は直接地面に腰を下ろし煙草を吸いながら、ぼんやりと、休日の終わりを名残惜しんでいます。彼らは会話をしているようには見えません。しかし言葉を介さずにいるからこそ、かえって空気は濃密に共有されているように見えます。
 この風景の中に、行ってみたいと思います。行くことができれば、と思います。

 ・・・その風景の中に、本当に行けたとしたらどうでしょうか。憧れていた風景の中に、もし本当に行けたとしたら、何を思うのでしょうか。


 おかげさまでtheatre project BRIDGEも『Lucky Bang Horror』で8回目の公演となりました。次の次で、ついに10回目の公演です。今こうして劇場でみなさまとお会いできたことを思うと、今日まで劇団を続けてきてよかったと、本当に思います。
 6年前、僕らは退屈な日常から脱け出せる、非日常な、憧れの場所としてtheatre
project BRIDGEを旗揚げしました。当時僕は19歳、ノア役の渡邉優子は高校2年生で照明の手伝いをしていました。
 そして今、僕は25歳。BRIDGEは既に非日常ではなくなりました。

 憧れの風景の中に行くことができた僕は、きっと幸福を感じ、満ち足りた気持ちになるでしょう。
 山あいの村の緑の中を歩きながら、緩やかな時間の流れに心地よく抱かれるでしょう。気の合う仲間と晩夏の夕日を眺め、『シーサイド・ウーマン・ブルース』なんかを聞きながら、ビールの酔いと戯れるでしょう。
 けれどやがてその幸福な時間は終わります。村も、丘の上の小さな家も、その場所にいればいるだけ、最初に感じた満ち足りた気持ちは、いつの間にかやせ細っていくのです。
 そうして、僕は、次の風景写真を見つけてしまうかもしれません。憧れの風景の中で、さらにその次の憧れの風景写真を見つけてしまうかもしれません。

 BRIDGEを続けること。6年間、僕らにとってただそれだけが試練でした。
 来年も、再来年も、僕らは舞台に立ち続けようと思います。
 憧れの風景写真と、そして今いる場所と、その2つの間を絶えず揺れながら、それでも。

 本日はご来場いただき、本当にありがとうございました。
 またお逢いしましょう。
 

| 2006,12,01,Fri 22:14 | theatre project BRIDGE | comments (x) | trackback (x) |

『リボルバー』

 人生で初めて僕が、みんなで何かを作る、ということを体験したのは、小学1年生の「砂の工作」の時だろうと思います。
 海まで歩いて3分の海沿いの小学校でした。毎年夏に全校生徒で砂浜へ行き、各クラスで砂を使って何か大きなものを作る、というのが「砂の工作」という行事でした。
 僕のいた1年3組が作ったのは確か、大きな海ガメだったと思います。隣の6年生のクラスが作った砂のスフィンクスの迫力は今でもよく覚えています。
 次の日になっても、その次の日になっても、砂浜には僕らが作った砂の生きものや建物が、波で形を崩されつつも、残っていました。
 
 「高校時代のような恋愛がしたい」という話を、今公演の稽古中にメンバー数人と酒の席で語ったことがありました。
 theatre project BRIDGEの母体となった湘南高校という学校は、僕の小学校ほどではないですが、やはりその名の通り海の近くにありました。
 午後の授業をサボッてこっそりと校門を抜け、15分ほど頑張って漕げば、2人乗りの自転車は、潮風のあたる海沿いの遊歩道へとたどりつきます。
 僕らは2人で砂まじりのコンクリートに腰を下ろし、砂浜を全力疾走する犬たちや、黒い点になって見える遠くのサーファーの姿をぼんやりと眺めます。そしてそのまま、太陽が富士山の麓へと沈むのを待つのです。

 僕は物心ついてから約20年間、海の近くで暮らしてきました。
 しかしここ数年、海を眺める時間があっても、僕は気付くと大きな海ガメや、高校時代に見た潮でベタついた夕日を探してばかりいます。
 あの時の景色はどこにあるのかと探してばかりいて、目の前の海を見ているようで、見ていません。僕は記憶の中の海との対比でしか、目の前にある現在の海を眺められなくなっているのです。


 今日は『リボルバー』の最後の稽古でした。
 道の途中、車の中から僕は、社会人になって今はもう参加ができなくなってしまったある劇団メンバーの姿を見かけました。
 赤信号の右側に、彼が働いているお店があり、制服を来た彼の背中が、レジの中に見えました。
 その背中を僕は、彼と共に芝居をしていた時の記憶と対比して見つめました。
 やがて信号が青に変わり、僕は彼のいない稽古場へ向けて、アクセルを踏みました。

 theatre project BRIDGEの前回公演『眠りの森の、ケモノ』が終演したのは2003年12月20日。あれから2年余りが過ぎました。
 あの日から今日までのことをここで書くのは、とても野暮なことのように思います。
 記憶は常に、語られることを要求しています。しかし僕はもう、記憶を語るのをよそうと思うのです。
 砂浜に寝そべった海ガメを探すよりも、制服を着て眺めた夕焼けの海を思い出そうとするよりも、僕は明日の話を紡げるようになりたいと思っています。
 だから『眠りの森の、ケモノ』でカーテンコールのごあいさつをした彼の姿を、声を、僕は今そっと、忘れてしまおうと思います。

 本日はご来場いただき、本当にありがとうございました。
 またお逢いしましょう。

| 2006,01,20,Fri 2:37 | theatre project BRIDGE | comments (x) | trackback (x) |

『眠りの森の、ケモノ』

 「share」という英単語があります。これは「分ける」という日本語訳が代表的ですが、僕は大学受験のとき、ある先生から、“shareは「分ける」ではなく「共有する」ということなのだ”と習いました。ケーキをshareするといったら、1つのケーキを数人で分ける、のではなく、1つのケーキを数人で共有する、と考えろと。
 同じケーキをshareすることで、その味を共感し合い、食べるための時間を共に持つ。共有することは他人とつながることなのだ、というイメージが僕の中に芽生えたのは、このshareの意味を習ったときのことでした。
 他人とつながろうとする時、音楽や映画や芝居や、何らかの媒介を共有することで、僕らはそれを果たそうとします。言語も所詮媒介です。意味を共有することでコミュニケートをするための道具です。
 しかし音楽の趣向や言葉の使い方は人それぞれ微妙に違います。他人と本当にshareできるものは、ケーキのように容易く手に入れられるものではありません。
 そしてまた、その人とつながり合いたいという気持ちが強ければ強いほど、逆に共有できないものの存在が見えてきてしまいます。
 街を歩いているときも、駅で電車を待っているときも、大学で多くの人とすれ違うときも、そしてBRIDGEの稽古場でも、僕はいつも、この共有できないものの存在に恐怖してきました。

 僕は「村」の話を作ろうと思いました。人と人とが何かを共有し合い、そしてやがて共有できないものに気づいていく、そんな集団の話を作ろうと思いました。
 これが『眠りの森の、ケモノ』が生まれる、いくつかあるきっかけの内の1つです。


 theatre project BRIDGEを旗揚げして丸3年が経ちました。
 3年前、僕は19歳でした。大学に入ったものの自分の居場所が見つけられず、ケモノ役の小菅慎哉に誘われて、劇団を作りました。なぜ劇団だったのかと言えば、高校の時にやってみて楽しかった、というだけの根拠でしかありませんでした。明確な「劇団」ではありませんでした。当時の僕らは「芝居を作ること」ではなく、「一生懸命何かに打ち込みたい」という意志でつながった集団でした。
 それから、3年が経ちました。
 小菅慎哉は1度劇団をやめ、そしてまた帰ってきました。老婆役の真乃みのりはプロの劇団員になりました。法泉役の渡邉香里とリツ役の根岸花奈子は大学を卒業し就職をしました。僕は特に明確な動機もなく、台本を書き芝居を演出するようになりました。お客さんからメンバーになった人がいました。メンバーからお客さんになった人がいました。お客さんが増えました。たくさんの人に出会いました。何人かの近しい人が亡くなりました。僕らはお互いを励まし合い、喜ばし合い、傷つけあってきました。たくさんのものを手にし、同じくらいたくさんのものを失ってきました。
 僕らはいつの間にか「劇団」と名乗るようになっていました。

 今この文章を本番3日前の稽古場で書いています。
 役者はジャージに着替え、弓役の鳥居沙菜の号令の下、ストレッチを始めました。3年間変わらない光景です。
 そしてやがて、ストレッチが終わり、発声が終わると、役者が稽古場の両側にスタンバイをして、僕が「ハイッ!」と手を叩きます。
 その瞬間から、僕らは何度でも、全てを始めます。お客さんとshareできる何かを、そして僕ら自身がお互いにshareできる何かを、探し始めます。喜びも悲しみも全て包み込んで、僕が手を叩いたら、ただひたすら前向きな運動を続けていくのです。

 その運動が続いた、延長線上で、またもう1度僕らは皆さんと逢いたいと思います。

| 2003,12,19,Fri 2:35 | theatre project BRIDGE | comments (x) | trackback (x) |

『500万年ララバイ』

 ディズニーランドで1日中、閉園時間ギリギリまで遊んだ後、JR舞浜駅から京葉線に乗り込みます。すると会社帰りのサラリーマンと、週刊誌の吊り広告が目に飛び込んできます。
 「現実に戻ってきた・・・」。夢の世界を存分に味わった代償であるかのように、それまで頭の中に漂っていた甘い匂いの霧は急速に消えて、明日の1限の授業のこと、先週バイトで失敗したことなんかが思い出されてきます。
 ディズニーランドに大して興味のない人には「何のこっちゃ」と思う話かもしれませんが、旅行や映画などのレジャーに置き換えてみれば、この感覚は、大多数の人が経験したことのあるものになるかと思います。
 この瞬間、ディズニーランドのケースで言うなら、背中に『星に願いを』を聴きながらトボトボと舞浜駅の改札に向かって歩いていくこの瞬間こそ、実は僕が芝居で挑みたい瞬間なのではないか、と思うことがあります。“夢の世界”を提供することではなく、それがスウッと遠ざかっていく瞬間にこそ、僕は芝居を作る根拠を感じることがあるのです。
 つまり、どうにかして現実の生活や人生に、寄り添った作品を作りたいと願っているのです。
 そのための方法は、はっきり言ってよくわかりません。ずっとわからないままなのかもしれません。ただ、とにかく一生懸命に、本当にひたすら一生懸命に作るしかないということだけは確かであると思います。

 今回の『500万年ララバイ』はtheatre project BRIDGEにとって5回目の公演になります。
 旗揚げから毎回、パンフレットにこの「観終わってから読んでください」という終演後のあいさつのようなものを書き続けてきました。しかし、僕の発言権は、基本的には作品内でのみ許されていると思っています。
 この場で作品の解説をしたり、稽古の苦労話や劇団内の内情を語っても、それは『500万年ララバイ』とみなさんの生活や人生とが近づくことにはなりません。
 1曲目の音楽・一言目の台詞から最後の暗転まで、『500万年ララバイ』は結局その中にしか存在しないのです。いえ、theatre project BRIDGEそのものが、そのたかだか2時間の中にしか存在しないのです。
 しかし、そのわずかな、ほんの一瞬に過ぎない時間が、わずかでもみなさんの中に居場所を設けられたらいいなと、思っています。

 それでは、また逢いましょう。

| 2003,08,29,Fri 2:34 | theatre project BRIDGE | comments (x) | trackback (x) |

『PATRICIA』

 小田急鵠沼海岸駅から真っ直ぐ南へ下ると、ほんの5分ほどで海が見えます。海辺の遊歩道に腰を下ろせば、左側から江ノ島が迫り、右へ視線をずらせばはるか向こうに小田原や熱海、伊豆半島のつけ根あたりがかすんで見えて、その上の雲の隙間から富士山の頂が顔をのぞかせています。
 秋から冬にかけての海は夏のような混雑も無く、かと言って晴れた日の昼間なんかはけっこう暖かくて、そんな時に波音を聞きながら本を読んだり、砂浜を駆け回る散歩の犬たちを眺めたりするのは、僕にとってなかなかに甘美な瞬間です。
僕はその潮のにおいを、太陽の角度や海岸線の車の音を、目の前に広がるこの風景から感じ取れるありとあらゆる要素を、とても愛しているのです。
 しかし、僕はやがて、自分と風景との境界線を失っていきます。ブツン、ブツン、とまるで糸が切れるように、僕の中にある現実との接点が消えていき、海辺にポツンと座る僕は、一体自分はどこにいるのかがさっぱりわからなくなってくるのです。
 僕は本当に途方に暮れます。今のこの状態をどう回復すればいいのかがわからなくて途方に暮れます。風景を愛すれば愛するほど、僕は一体どうしたらいいのかがわからなくなるのです。
 ふと、手に持っていた本のページの上に、小さな羽虫の死骸が乗っていることに気付きました。風に運ばれてきたのでしょうか。そのくらい軽く、本の文字と見間違いそうなほど小さな羽虫の死骸です。
僕は目を近づけました。6本の足をキチンと折り曲げて、身体を丸めているその格好は、まるで眠っているようです。眠ることも死ぬことも、もしかしたらあまり違いは無いのかもしれません。
 掌の上でコロコロと転がしていると、おそらく僕の元へやってきた時と同じように、強い風が羽虫をさらっていきました。一瞬の出来事で、僕はその行方を確かめる暇もありませんでした。小さな眠る羽虫は、鵠沼の風景となっていきました。

 おかげさまでtheatre project BRIDGEも3年目の冬を迎えることができました。今僕らの持てる戦力を出し切るなら今しかない!という意味で「“総力戦”公演」と名付けました。いかがだったでしょうか。
 今日12月6日のゲネプロ(本番と全て同じに行うリハーサル)直前、舞台の上では、BRIDGE史上最多、総勢15人の役者と、そして役者に負けない気勢を持つスタッフ達が、気合を入れています。
僕はその輪に入りません。他に仕事があったという事情もあるのですが、もし他に仕事が無かったとしても輪には入らなかったでしょう。いえ、入れなかったでしょう。
なぜ入れないのかという理由を説明するのには、残りの紙面が少なすぎるのでやめます。しかし、舞台上で気合を入れる役者・スタッフと、舞台外でそれを見る僕。おそらくこの距離が、旗上げしてから2年が経ったという事実そのもののような気がします。
2年間で、関係が変わり、お互いの立ち位置が変わった。多分、そういうことなんだと思います。そしてそこには、少しだけの寂しさがあるのです。

 徐々に夕暮れが近づき、海辺の温度は急速にひんやりとしてきます。
 海岸線に灯りがついて、それがどこまでも伸びていきます。そのオレンジの灯りは本当に、どこまでも、永遠に、続いていきそうに見えます。
 そして僕は立ち上がり、歩き始めます。行き先はオレンジの灯りの行き着く先ではなく、稽古場です。今日もおそらく「もうやってらんねえや!」と叫びたくなるような問題が勃発する稽古場です。
 しかし、それでも僕は、いえ、僕らは舞台の上で立ち続けようと思います。記憶にしか留まらないメディアだからこそ、僕らは叫ぶのです。「僕らはここにいる」と。

 本日はご来場いただきありがとうございました。また逢いましょう。

| 2002,12,07,Sat 2:31 | theatre project BRIDGE | comments (x) | trackback (x) |

『あの夏のMessenger』

手紙を届けるために


 2年前、大学に入学した僕は、思い描いていた理想と、目の前の現実とのギャップに、ボロボロにされていました。キャンパスに溢れていたのは、あまりにも薄っぺらい人間関係や、“生きていくこと”を“生活していくこと”と混同している教授の話。
 僕は別に、「高校時代は楽しかった。大学はつまらない。」という単純な結論を言いたいわけではありません。ましてや、「大学の教育はマチガっている!」などと主張するつもりもありません。
 僕はただ、このまま行くと、高校3年生の時に仲間と確実に感じられていた“あるモノ”を失ってしまうのではないか、と不安だったのです。
 これは本当に、尋常な不安ではありませんでした。“あるモノ”とは僕にとって、たまらなく愛しくて、切なくて、涙が溢れてくるほど強烈なものだったのですから。
 僕らの周りの人は、「若さ」であるとか、「情熱」であるとか、意味を理解できていると勘違いしている単語で、この“あるモノ”を簡単に結論づけます。
 これは僕らにとって、暴力でした。
 しかし、この暴力から身を守るため、「これは暴力だからやめてくれ。」と発言し、それを制せるだけの根拠が、僕らには無かったのです。
 theatre project BRIDGEとは、この根拠を見つけ出すための、僕らの旅なのです。・・・というとちょっとカッコよく書きすぎですが、気持ちとしては、真実です。
 “あるモノ”は言葉にできません。いえ、言葉にしようと努力し続けるのですが、とても難しいのです。なぜならそれは、「自分が、恋人のことをどうして好きなのか」を誰かに説明することと同じで、言葉を重ねれば重ねるほど、違和感が増すものだからです。
しかし、言葉に直せないからこそ、僕らは芝居をやるのです。僕らはみなさんと、言葉以外のものでコミュニケーションし続けようと思うのです。
 
 ラスト、林太郎が1歩を踏み出したあと、例えば1年後、彼はどうなっているのか。
 あることをきっかけに、最初の1歩を踏み出すことはできます。しかし、それでも、彼と彼の友人との距離はまだまだ遠く、縮まることはありません。
 1歩を踏み出すことに価値はあります。
 しかし、問題は、目の前に横たわる、残酷な距離を目の当たりにしながら、2歩目、3歩目、と歩き続けることです。自分と、自分が愛する人との、絶対に縮まらないこの距離から目を背けず、あくまで前向きに歩き続けていくこと、
 自分と他人との距離を悟った瞬間から、誰の力も借りず、1人で歩き続けることを否が応にも要求されます。
 1人であることを認め、それを引き受けることはとても苦しく、さみしい。
 しかしそれでも前向きな姿勢を保つことができれば、それは、なんというか、きっと素敵なことだと思うのです。
 なぜなら、人との「別れ」を確信することは、それはそれで、1つの「出会い」であると、思うからです。「別れ」は「出会い」であり、「出会い」は「別れ」であると思うのです。

 僕は“あるモノ”を叫び、同時に“あるモノ”と闘い続けます。
 「あの夏、おれは確かに走っていた。」
 この次の言葉を、僕は探し続けるのです。どんなに苦しくても、どんなにさみしくても、その言葉を手紙にし、あの人の背中に届けるために。
 本日はご来場いただき、ありがとうございました。
 また逢いましょう。

| 2002,08,17,Sat 2:29 | theatre project BRIDGE | comments (x) | trackback (x) |

『Goodbye, Christmas Eve』

そして僕らは出会いつづける


 このパンフレットの役者紹介のページで、役者達に聞いたアンケートは「自分を変えた出会い」でした。改めて考えてみると、僕達は無数の「出会い」を経験します。出会う相手も人間ばかりではなく、例えば本、例えば映画、実に様々です。
 しかし、どのような「出会い」であっても、その全てには意味がある、と僕は思っています。その出会いをきっかけとして「(自分が)変わる」という意味です。「この本に出会って将来〇〇〇になろうと決意した」というような大きな「変わる」から、無意識のうち起こる小さな「変わる」まで、何かと「出会う」ということは、自分が「変わる」可能性を秘めている素敵なイベントだと思います。そういう観点から言うと、今回のパンフレットのアンケートは自分で意識できる大きな変化をもたらした「出会い」のことなのでしょうね。
 何かと「出会い」、何かが「変わる」。もしかしたら当たり前のことなのかも知れません。しかし、今回の『Goodbye, Christmas Eve』で描きたかったものの1つはこのことでした。生きる、ということは変わる、ということ(もちろん、変わらない、変えたくない部分もありますが)。そして「変わる」きっかけはいつでも、誰かとの「出会い」にあるもの。だからきっと「出会う」ことは「生きる」ことと同義である、と思ったのです。

 高校3年生のとき、僕は「演劇」と出会いました。そしてさらにその「出会い」は素敵な友人達との「出会い」を運んできてくれました。偶然であるのに必然であるような、「運命」などという言葉は表現しきれないほどにあまりに素敵な「出会い」でした。そして僕らはtheatre project BRIDGEを立ち上げます。僕らBRIDGEが目指すもの、それは「出会い」の場なのです。今まで演劇に触れる機会の少なかったお客さんは、僕らの舞台と出会い、僕らはお客さんと出会う、そんな場。だからBRIDGEの舞台は、お客さんがいなければ成立しません。だってお客さん無しでは「出会い」なんてありえませんから。綺麗ごとではなく、そう思います。
 だからこそ、“劇団”ではなく“project”なんです。自分たちの活動によって多くの人と出会いたい!そして僕ら自身も、実はBRIDGEという“架け橋”によってつながっているメンバーなんですね。顔なじみ同士ですが、“BRIDGE”というものを通じて公演のために「出会う」。そして・・・・・・公演が終われば「別れ」る。
 「出会い」があればどんな形にせよ「別れ」があります。僕たちは8ヶ月前、BRIDGEの生みの親である小菅慎哉と「別れ」ました。どうしようもなく寂しくなり、不安で、一時はBRIDGEの今後の活動も危ぶまれた状況でした。しかし、本当に仕方のない「別れ」だったのです。
 去っていく慎哉に、僕は心の中で「さよなら」と言いました。しかしそれは、さみしさはあったものの、希望のない、暗い顔の「さよなら」では決してありませんでした。むしろ、慎哉への感謝に満ちた、なんというか、笑顔の「さよなら」だったのです。
 物語のラストで冬二がハルに言う「さよなら」。冬二は泣いてもいなければ落ち込んでもいない。笑っていました。あの「さよなら」こそが、冬二がハルと出会い、変わっていったことの証しだと思うのです。あの別れの「さよなら」を笑顔で言ったことに、冬二のかけがえのない「出会い」を見ることができると思うのです。そして、あの冬二の「さよなら」こそがきっと、慎哉に向けて僕が呟いた「さよなら」だったと思うのです。

 本日はお忙しい中お集まりいただき、本当にありがとうございました。
 また逢いましょう。

| 2001,12,08,Sat 2:26 | theatre project BRIDGE | comments (x) | trackback (x) |

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